CHAPTER19 2018年5月21日午後6時40分

 「我々としては、一刻の猶予も与えたくないというのが本音です」

内容とは裏腹に平滑な語り口で、朝霞あさか祐一郎ゆういちろうは端的に現状を伝える。

 やや言葉足らずなそれは、事務所に設置されたテレビから流れ出しているニュースを念頭に置いたものに違いなかった。それを承知しているが故に、芳賀沼はがぬま智音ともねは問い返すこともなく、事務机の上でふんぞり返ったまま祐一郎の眼鏡を睨めつけている。

 コーヒーの入ったカップを差し出した芳賀沼伊乃里いのりに会釈を返した彼がそれを一口含み、飲み下して机に戻すまでの間、智音は無言だった。何よりも雄弁に不機嫌を語る視線がその意味を嫌というほど空間に喧伝している以上、沈黙しているという表現が正しいかどうか首を傾げざるを得ない様子ではあったが。

「これだけ大胆な犯行を重ねているにもかかわらず、我々警察は決定的な証拠どころか居所すら掴めていません」

「だから、待ち伏せして現行犯を狙おうって腹だろう?」

開示するタイミングを見計らい続けていた祐一郎の努力を無に帰して、智音が吐き捨てる。親の説教を見透かした子供のような言い草だった。

れいちゃんが勝てなかった相手なんだ。凡人が何百人集まろうが勝てるわけがない」

視線、表情、身振り、あらゆる全てを使って呆れを表現しながら彼女は言う。椅子が回転する動きに合わせて、使い込まれた包丁のような髪が広がっていた。

「君の目と人海戦術なら現場を押さえるのは簡単だろう。だがその後はどうする。まさかミツバチのように人数で固めるとでも?」

「仰るとおりです。ですから、是非とも伊乃里さん――――いえ、戻さんにお力添えいただきたい」

智音の態度に気後れする様子もなく、祐一郎は微笑んだまま頭を下げる。

 それすら癇に障るのか、爪切りを持った飼い主を見る猫にも似た視線が彼へと突き刺さる。

「無計画に過ぎる。そもそも君たちはどうして証拠が見つからないのか考えてないだろう?」

盛大な溜め息でそれまでの話題を吹き飛ばすと、虫を思わせる細い体は事務机の上に乗り出した。

「証拠が見つからないのは君たちが無能なせいじゃない。もちろん、名前も容姿も分かっているのに犯人が見つからないのだって同じだ。私はらいちゃんにきちんと伝えたよ。犯人の異能は、自他が己へ向けるイメージを感じ取り、その通りに己を変質させる力だと。つまり、世間一般が犯人に対し『捕まらない凶悪強盗犯』というイメージを抱いている間は、どれだけ警察が努力しようが絶対に捕まえられないんだ。何百人投入しようが、戻ちゃんに頼ろうが、結果は見え透いてる。例の犯人グループたちが揃いも揃って長沼菖に関する記憶だけを失ってるのが良い例じゃないか」

対する祐一郎は、来客用のソファにしっかりと腰を落ち着けたまま、黒曜石のような双眸で己を睨む蜘蛛を見ている。

「渡会課長は、大々的な捕縛作戦を行うことで人々の『捕まって欲しい』という思いを強め、そこから被疑者の弱体化に繋げられると考えています」

彼は微笑む。書店の雑誌棚に並ぶ、大量の笑顔の一つのように。

「希望的観測だ」

唸るように、歌うように、事務机に陣取った銀色の蜘蛛は呟く。

「……だが興味はあるね。願望の上書きにどれくらいの効果があるか、確かめる価値はある」

狼にも似た琥珀色の双眸は、蛍光灯の白い輝きの下で炯々と光を放つ。

 それを見て、祐一郎は特別微笑みを深めるわけでもなく、そうプログラムされたロボットのように頭を下げた。

 そして彼が伝えるべき事項を伝え、智音がそれに同意した頃には、卓上のコーヒーは身の内の熱量を全て湯気として吐き出し終えていた。

 冷たくなった残りを一口であおり、祐一郎は慇懃な挨拶を残して芳賀沼探偵事務所を後にする。温くなったとはいえ既に太陽の加護が消えた空気は、シャッターの目立つ商店街という視覚情報と相まって祐一郎の痩身を冷やした。

 事務所から駅へ、駅から電車へ、革靴の底で一定のリズムを刻みながら、彼は帰路を辿る。一日の労働から解放された人々の中にあって、隙なくスーツを着込んだ姿そのものは、凡庸極まりない風景の一つでしかなかった。

 彼が足を止めたのは、乗り換えのために降りた巨大な駅の改札前だった。少し迷って、いつもとは違う路線を選ぶ。警察署に戻るための路線ではなく、自宅へと帰るための路線を。

 ホームへと滑り込んできた車両に乗り込み、混雑した車内に己の居場所を確保する。次いで吊り革の位置を確認したその双眸に、見慣れた情報が飛び込んできた。

 扉の上部に設置された小さなモニターだ。一定間隔でニュース記事を表示しているそれに、今、連続強盗犯逮捕に向けて大規模なパトロールを行うことを報じた記事が表示されていた。

 横崎市中心部で犯行を繰り返していること以外のほとんどが不明。それが、世間一般に発表されている強盗犯についての進捗だ。祐一郎の所属する捜査五課が独自に入手した情報は、そのほとんどが警察内部にも共有されないまま秘匿される。それを明かせば、入手経路や方法を説明する必要が生じるが故だ。

 理外の力は、理の外にあるが故に驚異的な力足りえる。だからこそ、それに携わる者にとってその秘匿は最優先事項であり、人命も尊厳も二の次に過ぎない。

 己に言い聞かせるように胸中でそう呟く。

 だがそれは、同時に別の問いを彼の中で生み出した。

 ――――では、私は? と。

 『十簑とおみの』の異能を持ちながら、血族として認められなかった朝霞祐一郎という人間は、どちらに立つべきか。

 捜査五課の捜査員としてやるべきことは一つだ。今すぐに上司へ連絡し、応援を連れて自宅に向かえばいい。たったそれだけで全ては解決し、彼はこれまで以上に冷遇されながら、これまでと同じ職務をこなせばいい。連続強盗犯は晴れて逮捕され、異能を封印された後、有罪判決を受けて収監される。非の打ち所のない、完璧で完全で最良の結末だ。

 それでいい。それがいい。朝霞祐一郎という人間は、そうやって最善と最良を重ねて生きてきたはずだった。言われるがまま、望まれるがままに。

 「おい、ユーイチ」

肩を強めに叩く薄い掌の感触で、祐一郎は思考の泥沼から顔をあげた。

 気が付けば、いつの間にか自宅の最寄り駅に立っている。自身の肉体に染み付いた習慣の強さに目を見張りながら、祐一郎は努めて穏やかに声の主――神田かんだあやめへと視線を向けた。

 蛍光灯の下で燦然と輝く煉瓦色のセミロングの下で、やや緑がかった茶色の双眸が、どこか肉食獣的な光の向こうに心配を透かしながらこちらを見ている。

 「……聞いてんのか?」

「いえ、少しぼんやりしていました」

彼は微笑む。そして己を出迎える拍手が止んだことを聞き取った指揮者のように、右手を持ち上げた。

 細く長い指が彼女の耳から垂れ下がるピアスを掠めるようにして、朱色の毛糸じみた髪を一房すくい上げる。

「随分、伸びましたね」

そんな一言が口を突く。いつも通りに滑らかな、けれどどこか硬さのない言葉だった。

 それが蛍光灯を反射するタイルに滴り、同心円を描いて霧散する。

 その間中、祐一郎と菖は共に硬直していた。

 片や、己が動作を信じられないが故に。

 片や、男の行動に虚を突かれたが故に。

 「……失礼。これはセクハラになってしまいますね」

「いや、別に。ちょっとビックリしたけどな」

よく磨かれた金管楽器のような滑らかさを取り戻した祐一郎の謝罪がタイルを滑り、へどもどと顔を背けた菖がそれを跳ね除けた。

 「そら、行こうぜ」

と、彼女はそれ以上祐一郎を一瞥もすることなく、地を滑る蛇を思わせるしなやかな足取りで夜闇へとその身を躍らせる。

 その後ろについて歩きながら、祐一郎はそっとポケットの中でスマートフォンに触れた。

 「ユーイチー、今日はハンバーグ作るからな」

「作れるんですか?」

スマートフォンを握り締める手から彼女の視線を逸らすように、彼は肖像画のように微笑んでみせる。

 金属同士を打ち合わせたが如き硬質な声の残響に、不満の色濃いアルトが重なった二重奏が、どこかともなく漂うカレーの香りと混ざり合って溶けていく。

 そんな柔らかな空気を掻き混ぜるように、肉のない細腕はぶらさげたレジ袋を揺らして見せた。

「バイト先の奴にレシピとコツを聞いたからな。大丈夫だろ」

蛇を連想させる顔の向こうに自信を覗かせて、菖は言う。

「そうですか。では、よろしくお願いしますね」

「敬語、直んねぇな」

と、祐一郎の言葉を蹴散らすように、彼女は言葉尻を重ねてくる。

「これは失礼」

凪いだ水面のように揺らぎのない調子の謝罪。

 けれどすぐに、祐一郎は黒縁眼鏡の奥で微かに目を細めた。

 すぐ脇を通り過ぎた車のヘッドライトに照らされた菖の顔が、ひどく沈んでいることを認識したからだ。

「ユーイチ」

と、彼女は薄い唇を僅かに動かす。口の端から微かに漏れた吐息は、どこか蛇のよう。

「無理はすんなよ」

街灯の灯りが照らす範囲だけが世界であるかのように、菖は足を止める。白光の下で赤丹色の髪が柔らかく揺れていた。

「アタシは、敬語はなんか、他人みたいで嫌だ。でもお前にとって変えられないくらい大事なら、別にそのままでもいい」

彼女は笑う。街灯から降る白光を跳ね除けるほど色鮮やかに。

 それに呼応するように、祐一郎もまた街灯の慈悲が届かない暗がりで笑う。キュビズムを彷彿とさせる笑みが、彼の顔面を覆いつくした。

「お気遣い、ありがとうございます」

 空間を灼くヘッドライトが、握りしめたスマートフォンに反射する。

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