CHAPTER18 2018年5月19日午後11時27分

 暗闇の中で、神田かんだあやめはふと我に返った。

 汚れた水の臭いが、鼻腔を通って肺を満たす。

 嗅ぎなれた香りだ。それと同じように、眼前に広がる鏡合わせの夜空もまた、菖にとっては見慣れた風景だった。

 二度と来たくないと思いながら、何度も何度も訪れた河川敷。今回もまた、肉付きの悪い長身は大地と水の狭間で白昼夢から覚めた。己のものではない財布と、己のものとは思えない記憶を抱えて。

 下草を親の仇のように踏みしめて、彼女は手にした財布を川面に叩きつけた。

 微かな水音だけを残して沈んだその財布を、菖は知らない。中身もほとんど確認していない。ここ最近はずっとそうだった。かつて仲間たちについて行っていた頃のように、必要だから盗むのではない。ただ盗むために盗む。まるでそうあれかしと望まれた操り人形のように、彼女は数日に一度、深夜の繁華街を飛び回っては、不幸な誰かを殴り、財布を奪って逃げる。そうしてこの河川敷にやってきては、我に返って盗品を投げ捨てるのだ。

 初めは、吐いたこともあった。

 そう、菖は回顧する。

 人を殴る感触と、殴られてくずおれる姿。菖が抱く倫理と現実の軋轢を解決するには、嘔吐という代償行為が必要だった。

 それも、最初の数度だけだったが。

 今、夜の帳が下りた河川敷の闇にくるまって立つ菖は、ただ黙って地面に横たわる漆黒のビロードを眺めている。

 夢と呼ぶにはあまりに鮮明な記憶は、犯した罪の数だけ彼女の中に降り積もり――――いつの間にか、彼女の正常な感性を覆い隠してしまっていた。

 どれだけ見つめても、川面が彼女の姿を映すことはない。そこにあるのは闇だけだ。

 この記憶は夢なのではないだろうか。

 不意に、彼女の脳裏をそんな期待が横切る。

 そんなことはないと分かっていて、なお彼女はそうであって欲しいと祈る。誰かに操られていた、実は二重人格だった、荒唐無稽だと理解していながら、そんな妄想に縋るのをやめられない。

 逃げるように河川敷を出て、しばらく歩いた先の駅から電車に乗り、居候先に近い駅で降りる。その間に出会った誰一人として、菖に注意を払う様子はなかった。スーツ姿の男性も、若いカップルも、酔っぱらいの集団も、自らの世界に閉じこもったきり、外界になど目もくれないのだ。

 それら全てが、菖に己が正常な人間かのような錯覚を起こさせる。ここにいても大丈夫なのだと勘違いさせる。

 だから、結局彼女はあらゆることを棚上げしたまま、居候先まで帰りついてしまうのだった。

 ドアノブに手をかけたまま、少し迷う。

 浮上した微かな逡巡を夜風に流して、菖は扉を引き開けた。

 今帰宅したばかりらしい細身の同居人――朝霞あさか祐一郎ゆういちろうが振り返る。一日という時間を感じさせる黒髪の奥の瞳に、金属質な、けれど穏やかな色を湛えて。

 短い挨拶と共に放られた微笑みを前に、菖の心臓は鷲掴みにされる。

そうして、鷲掴みにした誰かは問うのだ。

 曰く、『本当のお前を知ったとき、こいつはどんな顔をするのか』と。

 菖の中に答えはない。

「菖? どうかしましたか?」

だから、彼女は何も言わなかった。

「いや、なんでもねぇよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る