CHAPTER2  2018年9月18日午後7時9分

 金属製の柱に掲げられた見慣れぬ駅名を見つめる。電車の走り去る風が膝丈のスカートを揺らし、日が暮れたとはいえまだ熱の消えない空気があちらからこちらへと流れていく。その中で、手の中に握り締めた名刺に印字された地名と、駅名を照らし合わせた。

 結局二度ほど確認してから、人のいないエスカレーターを登る。改札を出て、見覚えのないシャッター街へと足を踏み入れると、寂れ切った商店街という言葉から浮き上がるイメージをそのまま形にしたような、錆と汚れと誰かの思い出を塗り固めた通りが待ち受けていた。すれ違う人影が全て怪しく思えるような、目の届かない闇の向こうに何かが息づいている気がするような不安感が私の脳髄に麻酔を染み込ませていく。

 やっとの思いで通常と異常の境界線さえ見えるかの如きそこを抜けた先に、塗装の剥がれかけた三階建ての建物。いわゆる雑居ビルと称される類であろうそれの壁で、蝋燭でも使っているような明るさで、『芳賀はがぬま探偵事務所』の文字が光っていた。

 スマートフォンに表示された目印の位置と現在地を示す光点が重なったことを確認して、私はそっとスマートフォンをポケットにしまった。眼前の建物をじっと見つめ、仄かな街灯に照らされた外観に少しだけ気後れする。

 それは廃墟というにはひどく綺麗だった。今しがた通り抜けた商店街のどの建物よりも、きっと新しい。汚れがないわけではないけれど、錆も、そして記憶もへばりついている様子はない。

 けれど、どこか冷たい。門はなく、塀もなく、灯りはついていて、入り口の扉も目の前にあるはずなのに、。そうとしか言いようのない感覚が、シーツに零したコーヒーみたいに私の中で広がっていく。

 今日は遅いから、また今度にしよう。

 そう囁く私を引き剥がして、磨りガラスをノックした。

 くぐもった返答。どこか意表を突かれたような、少し頓狂な返事だった。

「はい、あ……ご依頼ですか?」

扉を開けた人影は、こちらが羨ましくなるほど艶やかな黒の長髪を揺らして笑う。先ほど見た詐欺師然とした笑顔ではない、きちんとした営業スマイル。ぱっちりとした目と、形の良い眉が控えめな弧を描き、こちらの警戒心を融かすかのよう。その在り方は、どこか空を思わせた。もっとも、彼はこれほど綺麗な顔はしていないけれど。

 唐突にぶつけられた花のような微笑みを前に、数瞬の硬直。微笑みが怪訝へと変わった様にへどもどしながら、益体もない思考を振り払い、咄嗟に左手の名刺を突き出した。

「……これは、うちの所長の名刺ですね。お知合いですか?」

「あ、いえ」

掠れた声を何とか修復して、一度深呼吸。握り締めた拳で吹き飛んでいきそうな魂を掴み、食い込んだ爪の痛みと共に無理やり飲み下す。

「……もらったんです。朝霞あさかという刑事さんに。この探偵事務所は有能だからって」

そして、それだけをひと息に言い切った。

 固唾を呑む間もなく、どこか撫子を連想させる控えめな華やかさを湛えた女性は、再びその薄桃色の唇で微笑みを描いた。

「わかりました。ひとまず中へどうぞ」

しなやかな所作で招き入れられ、部屋の中心に据えられた革張りのソファへと誘われる。洒落っ気どころか無駄な装飾の一つもない室内で、先端付近で一つに束ねられた黒髪がテキパキと――その身のこなしはどこか危ういけれど――揺れ動く。

 「調査員の芳賀沼伊乃里いのりと申します。……申し訳ありませんが、現在所長は外出しておりまして。後数分もすれば戻ると思いますので、それまでまずはこちらを記入してお待ちください」

そっと差し出された冷たいお茶と記入用紙を受け取りながら、端麗な横顔をぼんやり見つめる。どこかのアイドルか芸能人かと言われても信じてしまいそうな顔立ち。

 「……あ、はい」

受け取った用紙に名前だの電話番号だのを書き入れる。渡されたペンを持つ私の手は、小刻みに震えていた。

 返却した記入用紙が細い指に回収されていくのをぼんやり眺めていたら、強烈に空気が揺れた。

 扉が勢いよく開いたのだと気づく前に、私の口から短い悲鳴が漏れる。もっとも、この騒ぎで誰かの耳に入ったとは思えなかったけれど。

 闖入者は大声でぶつくさ文句を撒き散らしながら、虫を思わせる細長い足で大股に私の前を横切り、どっかりと所長用と思しき椅子に腰を下ろした。そして所在なく縮こまる私には目もくれず、給湯室だろうか、部屋の奥の暗がりへ消えた女性へと大声で喚き出す。

「聞いてくれよ伊乃里ちゃん! あの野郎『本件の直接の解決は我々の手に因るものですから』とか何とか言って、三割も値切りやがった! 三割だぞ三割! 絶対アイツ狐狸の類だろクソッたれめおい待て君は誰だ?」

ひとしきり誰かへの罵詈雑言をぶちまけてから、間髪入れずに私へと鋭い視線が向けられる。琥珀色をしたそれは、狼というよりも、もう少し胡乱な感じがした。

 どこか日本人離れした容姿が真正面から私をじろじろと観察する。舐めるような、それもネコ科の獣に舐められているかのようなヒリヒリした感覚が私の体表面に走った。

「ご依頼にいらっしゃった方ですよ。所長。失礼の無いようお願いします」

所長用なのだろう、使い込まれたマグカップを手に、伊乃里というらしい黒髪の女性が再び奥から現れる。

 色褪せた結婚指輪にも似たくすんだプラチナブロンドを掻き上げて、所長と呼ばれた女性は数時間前に私が朝霞刑事にして見せたような刺々しい声で言った。

「それで、君の依頼は何だい? 浮気調査か? ペット探しか?」

まるで蜘蛛のようだ、と思った。簡素な事務机に肘をついてこちらに身を乗り出す所長の姿を見て。二の腕が私の手首ほどの細さなのに、きっと私の倍は長さがある。

 悲鳴こそ呑み込んだけれど、ソファに沈んだ腰が少し後ろにずれるのは、止められなかった。

 次いで、自分の腰が引けているという事実が、特に宛先の無い苛立ちへと置換される。

 「所長。何もそんな言い方は……」

「人を探して欲しいんです」

私を気遣う伊乃里さんの声をどこか遠くに聞きながら、私は意を決して怒鳴った。

 「……家出、ですか?」

控えめな問いは伊乃里さんの口から。それに大仰に頷いて、止められる前に――否、心が折れる前に、畳み掛ける。

「はい。探して欲しいのは私と同い年の、十八歳の男です。名前は内海うつみそら。身長は百七十センチくらいの細身。いなくなったときの服装は、確かパステルカラーのひらひらした感じでした」

言いながら、彼の写った写真をスマホに表示させて差し出す。それをさもつまらなさそうに一瞥して、銀髪の女性は吐き捨てた。

「それで、本題は?」

 その言葉への困惑は顔に出ていたのか、伊乃里さんから助け舟がやってきた。

「……いつきさん。貴女は朝霞刑事からここを紹介されたのでしたよね」

首肯を返す。

「この芳賀沼探偵事務所は、もちろん探偵事務所として依頼を受け付けているのですが、少々特殊なのです」

あくまで丁重に、きちんと順序立てて話そうとしてくれている伊乃里さんを遮って、所長は銀髪を振り乱して身を乗り出した。

「君はここに入ってこられた。あの狐野郎なら嫌がらせついでにクソつまらん案件押し付けるくらいやるかとも思ったが、考えてみれば他人の紹介と名刺一枚でここの暗示が破れるわけもない。ってことは君は見たはずだ。感じたはずだ。さあ言ってごらん!」

一対の琥珀が爛々とこちらを見ている。その眼光はまるで虫ピンのように私の体に突き刺さっていた。

 その言葉の大半は私の理解の範疇を越えていたけれど、所長にそれ以上言葉を継ぐ気はなさそう。私の返答を促すように、琥珀色の双眸をキラキラと蛍光灯に反射させるばかり。

その代わりとばかりに、穏やかな笛の音を思わせる声が説明を引き継ぐ。

「樹さん。突拍子もないことと感じるかもしれませんが……その方が失踪したとき、何かを見たのではありませんか? ――――常識ではありえないような、異常な何かを」

蛍光灯の光を反射して輝く銀の隣、淑やかに佇む黒髪を見る。どこか日本人形を思わせる、美しさの裏側に得体の知れない不気味さを孕んだ微笑みがこちらを見ていた。

 所長の視線が虫ピンだとするなら、伊乃里さんの視線は一種の香。頭蓋の中に彼女の言葉が染み込んで、記憶野を揺らすような感覚。

 気づけば、私はそれを口に出していた。

「……透明になったんです」

あれは見間違いだった、思い違いだった、そう否定してきた記憶を。

「二週間ほど前、最後に会ったときです。立ち去ろうとする彼を引き留めようとしたら、突然、目の前にあったはずの後ろ姿が掻き消えたんです」

 一瞬の出来事だった。引き留めようと手を伸ばした先で、彼の輪郭が解れて、色彩が薄くなって、あたかも蜃気楼か何かのようにその場から消え失せた。声を出す時間すら一緒に消されてしまったかのように、私は呆然と立ち竦むことしかできなかったのだ。

 それをぽつぽつと口にすると、琥珀色の双眸が爛々と輝きを増して、更にこちらへと迫ってきた。

「そういうのだ、そういうのが聞きたかったんだよ! 透明、透明人間か! ふむ。フィクションじゃあウェルズに始まりそろそろ使い尽くされたような題材だが、伝承上じゃあ意外と少ない。例えば亡霊の類は透明や半透明というのが主流だし、座敷童のように特定の人間には見えるが他の者には見えないという妖怪はいる。だが、ただの人間がある日突然透明になるという類の奇譚は、フィクションを除けばあまり例がない。これはそもそも人間がどうにかなるというより、人間をどうにかしてしまう別の存在を語る伝承の方が多いから当たり前と言えば当たり前だが……」

まるで立て板に水、突然スイッチが切り替わった所長はべらべらと何事かを喋り散らすと、ニヤニヤ笑いを浮かべたまま言ったのだった。

「――――いいねぇ、こういう話は嫌いじゃない。君の依頼を受けよう。捜索期間はひとまず二週間。それで見つからなければ相談の上で順次延長する。料金は前金で五万。依頼を達成した場合は報酬として五万。経費込みだ。万が一荒事が必要になった場合は程度に応じて危険手当を加算させてもらう。いいかい?」

急激な態度の変化に面食らいながらも、渡された契約書にサインし、握り締めていた鞄から銀行の名前が大書された封筒を取り出す。それを机に置いて、二人の方へと押し出した。

「ぴったり十万あります」

 一人暮らしでもない、特別多趣味でも、広い人間関係を持っているわけでもない。アルバイトなど生まれてこの方したことがない平凡な高校生であるところの私が、お年玉だのなんだのを漫然と貯めてきた年月の結晶。

 ほんの一歩、分相応の世界からはみ出てしまえば、一瞬で吹き飛ぶ、蝋燭の火よりも心許ない貯蓄だった。

 その封筒から五枚だけを引き抜いて確かめ、所長は頷いた。

「契約成立!」

契約書と五枚の一万円札をしまい込み、所長は日本人離れした色の瞳で、私が最初に書いた紙をしげしげと見やる。

「樹、ゆいちゃんか。十八歳。高校三年生?」

「あ、はい」

「ふーん。一応ご両親にも話は通しておいてね。後でごたごた騒がれても困るし」

「はい」

「それじゃあ、こちらも自己紹介と行こうか!」

所長はそう言うと、銀にも見えるプラチナブロンドを払い除け、にやりと笑った。

「改めて、所長の芳賀はがぬま智音ともねだ。三十五歳独身」

何ともコメントしがたい情報を堂々と付け足して、彼女は平坦な胸を張った。

「それからこっちが、調査員の芳賀沼伊乃里ちゃんだ。今年二十になったばかり。君とは年も近いし、まあ話しやすいかな?」

指し示された伊乃里さんが、長い黒髪をたおやかに揺らして一礼する。とりあえず会釈を返しておいた。

「後はもう一人、アドバイザーがいるんだけど、まあそれは後日でいいか。基本的には伊乃里ちゃんが情報収集、私がそれを見つつ監督、って形で進める。何か質問は?」

首を左右に振って否定の意を伝える。何が何やら、全然状況についていけていないけれど、とにかく引き受けてくれるなら、それで十分だった。

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