CHAPTER3 2018年9月20日午後3時38分
八月も終わったというのにじりじりと肌を焦がす日差しから逃げるように木陰に陣取り、ぽつぽつと門から出て行く人影を見送る。元気はつらつといった風にアスファルトを輝かせる陽光の中、とぼとぼと歩く男子が、あるいは姦しい女子の群れが去って行く。三々五々、というほどの人数でもない。生徒のほとんどは、まだ校内で体育祭の準備に明け暮れているのだから。
手持ち無沙汰を紛らわすようにスマートフォンを取り出し、電源を入れる。到着予定時間を記した簡素な、けれど丁寧なメールが来ていた。
それによれば後一分で到着するらしい。
私がわざわざピークは去ったとはいえまだ暑い中に佇んでいるのは、それが理由だった。
汗を拭うハンカチの向こうに、こちらへと近づいてくる人影が現れる。駅から続く急な坂を上ってきたことをこれ以上なくアピールする顔をしている。光の全てを吸収するかのような黒髪が、真っ白な半袖のブラウスから覗くこれまた白い腕が、そして紺色のタイトスカートが一定のリズムを刻むように揺れ動く。その度に人影の解像度が上がっていく。
私の前まで来たその人物――
「お待たせして申し訳ございません」
「いいえ。言うほど待ったわけではないですから」
それだけ簡潔に告げて、さっさと行こうと水を向ける。頷いた彼女と連れ立って昇降口へと向かう道すがら、私は思い切って尋ねた。
「悪目立ちするのは避けたいんですが、何か考えはあるんですか?」
「ええ、はい」
返ってきたのは歯切れの悪い返答。どこかごまかすようなそのやり口が癇に障って、無意識に語気を荒げて問い詰める。
それに観念したわけではないだろうけれど、ごまかす方が骨だと思わせるところまでは成功したらしかった。頭一つ高いところにある清廉な微笑みに一瞬だけ苦味が走り、そしてすぐに消えた。
「暗示による刷り込みや洗脳を用います」
ぶつけられた言葉が私の思考を漂白する。唐突に発されたそれ、あまりに現実離れしたその言葉は、私に間抜け面を晒させるに足る破壊力を持って鼓膜へと飛び込んできたのだった。
呆ける私に毒気を抜かれたのか、小さく笑いながら彼女は続ける。
「要するに催眠術――――と言うと胡散臭いかもしれませんが、そういった類のものを使うのです」
彼女は、一言たりとも嘘など言っていなかった。少なくとも私の目にはそう映った。
「生まれつきそういった類のことが得意なものでして。周囲の人間に、私の行いに対する一切の違和感を抱かせないようにする。ついでに記憶に残すなと言えば、どこで何をしようとも咎められることはありません」
信じられませんか、と彼女は笑う。どこか曖昧で、ひどく力の無い微笑みだ。
その、こちらの出方を窺うような笑い方は彼を彷彿とさせて、やけに癇に障った。
「透明人間を探してもらおうというのに、今更常識も非常識もないでしょう。空を見つけてくれさえするなら、あなたが何者かなんてどうでもいいわ」
早口でそれだけ吐き捨てて、来客用玄関を指差す。
「正規の手順ならあそこからです」
「ありがとうございます。では、中で合流することにしましょう」
暗示とやらでどうとでもなるのなら正規の手順を踏む必要もないのかと気づいたのは靴箱から己の上履きを取り出したときだった。
ご丁寧に入校許可証を首から下げた伊乃里さんがパタパタとスリッパを鳴らして現れるのを待って、階段を上る。話のタネに浮かんだ疑問を口にしたら、伊乃里さんは特に気分を害した様子もなく微笑んだ。
「もちろん、それも可能です。とはいえ目的は潜入ではありませんから。違和感のきっかけになるようなものはできるだけ排除しておいた方が、後々困る原因を減らせるのです」
そんなものか、と頷いた私の前に人影。
すらりとした、けれど決してひ弱な印象はない長身とぶつかりかける。声を聞くまでもなく、顔を見上げるまでもなく、その正体は察しがついた。
「悪かったわね、
「いや、こっちこそ悪かった。大丈夫か?」
「ええ」
よろけた体を立て直し、改めて二十センチ以上高いところにある顔を見上げる。どこか猟犬を思わせる鋭い風貌がこちらを見下ろしていた。
「……今日は帰らなくていいのか?」
歯切れの悪い言い草は、こちらを気遣ってのものかしら。その割には、話題のチョイスが絶望的だけれど。
「ええ」
さてここからどう事情聴取まで持ち込むか。
そんな思案は直後にその意味を失った。
「こんにちは」
穏やかに、たおやかに、淑やかに、埃の混じった空気が震えた。いっそ幻想的とすら言い得るほどに蠱惑的な震えが空間に満ちていく。学校の廊下という日常が、彼女という非日常に呑み込まれていくかの如き感覚。今まで立っていた地面が溶け、上下と左右に違いがなくなっていく。
「今、お時間よろしいですか?」
怪しく。
「では、少しお話したいことが」
妖しく。
「
奇しく――――彼女の声が頭蓋の中で轟く。
否、それは本当に声だろうか。香りのようでもあり、また煙のようでもある。不定形で不安定で不規則で、けれどひどく温かく、優しい。それは、例えるなら冬の朝に感じる布団の温もりのような――――。
「――――
熟睡の果ての目覚まし時計にも似た衝撃が全身を貫いた。
眼前には伊乃里さんの顔。靄がかかったように鈍い頭を振り回すが、既に岩長君の姿はない。私が呆けていた時間は、思っていた以上に長かったようだった。
「申し訳ありません。巻き込んでしまったようです」
形の良い眉を下げる彼女の口ぶりから察するに、今のが催眠術ということかしら。不快ではないけれど、決して楽しい感覚でもない。一言で言えば不思議だった。
「事情聴取は? できたんですか?」
彼女の謝罪へは上手い返答が見つからず、つっけんどんに質問を口にする。その無礼を気にする素振りはなく、穏やかな微笑みだけが返ってきた。
「ええ。この調子で後数名ほどお付き合いをお願いいたします。できれば生徒以外も」
その言葉に従い、彼と付き合いのある――ということを私が知っている――生徒数名を見つけ出しては伊乃里さんに尋問してもらうことを繰り返す。最初の失敗を反省してか質問中は距離を取らされたから、質問内容は分からない。彼女についても、私の見ていた限り、五円玉を振ったりライターの火を見つめさせたりする様子はなく、ただの世間話と言われても頷いてしまえるほど。私の精神を脅かしたあの不思議な感覚を呼び起こしているにしては、普通極まりなかった。
もっとも、その調子で担任から三年分の通知表を入手していたから、結果だけ見れば異常極まりなかったのだけれど。
結局彼女は生徒、教師を含め総勢十数人に質問し、三時間と少ししてから校門を出た。
そのままの足で電車に乗り、探偵事務所へと向かう。道すがら録音した記録をタブレットに入力していく伊乃里さんの横でネットニュースとSNSをチェックしながら、相も変わらずひやりとした空気が沈殿する商店街を抜ける。先日に比べてどこか明るさの増した探偵事務所に入ると、簡素な事務机に陣取った所長が待ちわびたようにニヤニヤと笑った。
「おかえりー、首尾はどうだいお二人さん?」
「ご両親と同級生十名、教師三名から話を聞くことが出来ました。詳細な聴取内容はこちらに」
「君の所見は?」
タブレットを受け取りながらの質問に、伊乃里さんは一拍思案に沈む。
それを傍目に革張りのソファに座った頃、鈴の音を思わせる声が遠慮がちに響いた。
「……交友関係の広さには驚きましたが、それ以外は凡庸、という言葉が似合うかと。優等生でも劣等生でもなく、生活態度に問題があるわけでもない。ご両親にも話を聞きましたが、家庭環境も至って普通でした。貧困、虐待、いじめなど、典型的な問題とも無関係です。所長が気にしていた血筋も特別目立つものはありません」
伊乃里さんの淡々とした報告に合わせてタブレットを操作していた所長が、その液晶から目を上げることもなく、口を開いた。
「君は彼についてどう思うんだい、樹
不意の質問に喉が詰まった。
吹き飛んだ頭でどうにか意図を問い返すと、さも当然といった態度が待っていた。
「彼という人間がどういう類の人間なのかってことさ」
「……それを知ってどうするんですか?」
思わず語気を荒げると、所長は当たり前だろうとでも言いたげな態度で肩を竦めた。
「捜索するにしたって、見えないことにはどうしようもないだろう? まずはその点を解決する方が先決だよ」
だからまずは質問に答えろ、と所長は言う。心底面倒くさそうに。想像だけれど、その顔は私の脳みそを直接ほじくれたなら楽なのになどと考えていそうにも見えた。
「……あまり積極的なタイプではないです。傍観していることの方が多いかと。友達が多いのは確かにその通りで、人の顔色を見たり、空気を読んだりはかなり得意なんだと思います。それを抜きにすれば普通の男の子だってことも言う通りです。優しくて、穏やかで、でもかなり優柔不断で、人の言うことに影響されやすい人だと思います。……親の話はほとんどしたことはないです。あまり自分のことを話したがらない感じなので」
あまり目新しい情報が出てこないことに少しだけ敗北感を感じていると、所長はタブレットから少し顔を上げて言った。
「透明になったのは今回が初めてかい?」
首肯。
「何か異能を扱う存在の末裔だったり、弟子入りしていたりは?」
「わかりません。そんな話は聞いたことがないです」
「親もそう言ってたのかい?」
質問の意図を図りかねていたら、横合いから肯定が飛んできた。どうやら、既に私への質問は終わっていたみたい。
「はい。少なくとも両親とも認識はしていないようでした。念のため祖父母宅にも向かいましたが、彼の姓が内海、祖先も田村、吉元、池田などですから恐らく可能性は低いかと」
その返答を受けて、所長はぐったりと背もたれに体を預けた。カマキリの如き細さの上半身がぐるぐると周り、その身に纏う落胆と苛立ちをぐちゃぐちゃにかき回してマーブル模様の声を上げる。
「……彼の血筋に何かあるんですか」
停滞に耐えかねて口火を切ると、所長は少しだけ晴れた表情で、堰を切ったように語りだした。その姿はまるで学校での様子を尋ねられた子供のよう。
「異能には二種類あるんだよ。代々受け継いでは改良されてきた相伝性異能と、個人が突発的に目覚める変異性異能。一般的にPSI、つまり超能力として親しまれるサイコキネシスやパイロキネシス、クレヤボヤンスなんかは全て変異性異能だ。その特徴は、一代限りで当人以外には使えないことと、比較的低レベルの能力で収まること。スプーン曲げだの、インスタントカメラでの念写だのがこれに当たる。軽い予知なんかもね。スプーンを曲げる程度、ちょっと筋肉があれば異能なんか無くてもできるだろう?」
そこで息継ぎ。けれどこちらが口を挟む暇もなく、くすんだ銀色の髪が机の上に乗り上げる。
「一方の相伝性異能は、イメージ的には僧侶やエクソシストなんかが近い。まあ、奴らは技能としてノウハウを積み上げているだけだから少し違うが――――要は到達点として描く何かに向けて、脈々と受け継がれ進化してきたものだ。その意味では宗教にも近いか。完璧な神を作り上げようとした者、人心の全てを思うさま操ろうとした者。そういう目的のために異能を磨き上げ、肉体を最適化する。それを何代も繰り返した結果なんだから、当然ぽっと出の変異性異能なんかとは比べ物にならないほど強力なんだ。それこそ、場合によっては魔法に近い能力を行使することもあるくらいにね」
蛍光灯の白い光を受けて、琥珀色をした一対の瞳が爛々と輝きながらこちらを見ている。色からすれば狼なのだろうけれど、どちらかというと童話に出てくる狡猾な狐のように思えた。
「ここで問題になるのは、透明人間君はどちらかという点だよ。伊乃里ちゃんの調査結果や君の話を聞く限りは変異性異能なんだが、それにしては能力が強すぎる。これだけの人間に認識されている者を綺麗さっぱり、これだけの時間透明にし続けるなんて、それこそ相伝性の領域なんだ。……ああ、もちろん全ての異能が必ず二分されるわけじゃない。物事には例外がつきものだからね。例えば伊乃里ちゃんの精神干渉は元々変異性異能だが、肉体に残された相伝性異能の因子と共鳴して非常に強力になっている。とはいえ当の相伝性異能は既に廃れ忘れられているから、相伝性そのものとも言えない。とまあ、こういう先祖返りのような例外はあるが、それだって相伝性異能が伝えられていた家系だという証拠がどこかで出てくるはずなんだ」
やれやれと言わんばかりに細い肩を竦め、日本人離れした風貌がゆらゆらと左右に回転する。
「相伝性なら探れば探るだけヒントが出るものなんだよ。逆に変異性なら付け入る隙が多く剥がすのは容易い。けど、今回のはどうにも掴みどころがないんだよねぇ」
数瞬の沈黙が飾り気のない事務所に落ちる。白い壁紙に大きなため息が吸い込まれ、カーテンの隙間の暗闇がじわりと滲みだすような錯覚に陥る。
ずっと黙っていた伊乃里さんが差し出したマグカップの中身をひと息に飲み干して、所長は決然とやや厚い唇を開いた。
「仕方ない! こうなったら神頼みだ」
彼女が口にした言葉の意味を理解することを、私の頭が拒否する。ぽかんとする私をよそに、伊乃里さんは少し残念そうに眉を下げて応じた。
「……このままでは埒が明かないのは事実です。仕方ない、ですね」
「ここまで強力な変異性異能はほとんど例がない。変異性ってのはただでさえ剥がしにくい。透明なんて情報収集のしにくい能力でこれじゃあ、こちらは手の打ちようがないよ」
手持ち無沙汰に、残っていたお茶を飲み干す。所長の言葉はほとんどが理解できなかったけれど、少なくともお手上げなのだということだけは理解できている。
あまりにあっさりと白旗を上げた辺りが、非常に苛立たしいけれど。
「……つまり、無理ってことですか」
自然、口から漏れる声も刺々しくなる。本当なら怒鳴り散らしたいくらいだった。
なのに、伊乃里さんはあくまで静かに佇むばかり。所長は面白がるように、こちらを煽り立てるかのように笑っていた。
「そうじゃないよ。今の我々じゃあたどり着けなさそうだって言ってるのさ」
「同じでしょう」
「いいや。助言を仰ぐって言ってるんだ」
「助言?」
私の頭から苛立ちを吹き飛ばし、疑問が居座る。間抜けに鸚鵡返しにした私の言葉を、いたずらっ子のような声が肯定した。
「そ。まあ直接見た方が早いだろう。伊乃里ちゃん、二人で起こしてきてくれ。うちの神様をさ」
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