CHAPTER4 2018年9月20日午後7時55分
鈴か風鈴を思わせる声に従い、靴を脱ぐ。事務所とは異なり生活感溢れる居間を横目に正面の階段を上がり、三階へ。恐らく私室と思しき扉を二つ通り過ぎ、最奥の扉の前で、ようやくすらりとした長身が足を止めた。
「……気を強く持ってくださいね」
唐突に投げかけられた不穏な言葉を十全に理解しきる前に、ノックの音が耳朶を打つ。
「
どうやら中にいるのは『ミコト』という人物らしい。君という敬称からして男性のようだけれど、それにしては名前の響きが似合わない。
そして数度のノックにも反応は無く、ただ少し薄暗い廊下に静寂ばかりが沈殿していた。
ほっそりした背中だけをひたすら見つめ続けるのはどうにも具合が悪い気がして、無意味に周囲に視線を動かす。ガラスの嵌った扉の向こう、恐らく屋上へと続いているらしい階段の上に、ぼんやりといびつな形の月が浮いていた。
きょろきょろする私の傍で、伊乃里さんは三度の呼びかけの末に意を決したらしかった。
「入りますよ、美琴君」
という奮起のもと、彼女は扉を押し開けた。
鍵は掛かっていないようで、軋むこともなく扉が開く。彼女の肩越しに覗き込んだけれど、部屋の中の様子は計り知れない。どうやら灯りが消されているらしく、室内には暗闇だけがわだかまっていた。
「美琴君、寝ているのですか? こんな時間に寝ると、夜眠れなくなりますよ」
伊乃里さんの細い指先が電気のスイッチをかちりと押し込む。一瞬のホワイトアウトの後、部屋の全容を目が捉えた。
簡素というには物が多く、雑多というには整頓されている。壁の本棚には文庫も漫画もハードカバーも節操なく押し込まれ、奥のベッドにはパジャマらしき服が見える。それらの纏う雰囲気はいつぞや招かれた
その最深部、戸口に背を向けるような形で置かれたロッキングチェアに、伊乃里さんがしなやかな、それでいてどこかスマートさに欠ける動作で近づいていく。
柔らかそうな、布製のロッキングチェアだ。その一番上から黒いものが覗いている。
それがシャンプーの広告すら色褪せるくらいに艶々した黒髪だと気がつくのに、数瞬を要した。
「美琴君、起きてください」
伊乃里さんの優しさに溢れた呼びかけに次いで、小さな欠伸の音。はみ出た頭頂部の横から、新雪の如き細腕がにゅっと生える。
「随分ぐっすり寝ていましたね」
ロッキングチェアの主に向け、伊乃里さんが優しく、甘やかに語り掛ける。
それに答えたのは、オルゴールが如き声だった。
「……そうだね。でも、そう長い時間じゃないよ」
魅力的で、魅惑的で、蠱惑的で、けれど爽やかで穏やかでどこか硬質な音楽が鼓膜を通じて脳髄を震わせる。それは全身を包み込み、こちらが思考する気力を失わせるかのよう。
「……ああ、なるほど」
と、続けてそれは言う。
「思ってたより早いけど――――うん。そういうこともあるか」
僅かにロッキングチェアが揺れ、その主が立ち上がる。
華奢な体躯だった。白いTシャツ越しに窺える肩、ベルトに覆われた腰、ズボンの裾から覗く足首、どれをとっても性別が分からない。肩の高さで切り揃えられた漆黒の髪を見るに少女のようだけれど、それを抜きにすれば少年ともいえる。今しがた耳にした声も、どちらとも取れるものだった。
立ち上がったその人物が振り向く。漆でも塗ったように黒い髪が、絹糸のようにふわりと揺れた。
生唾が喉を下っていくのが分かる。思考が塗り潰されていく。私の中に培われてきた美の規準が眼前の人間を中心に書き換えられていく。
それはモナ・リザが霞んで見えるくらい絵画的で、楊貴妃が裸足で逃げ出すくらい傾国で、ナルキッソスだって恋に落ちるくらいに端麗で――――どうしようもなく、言いようもなく、考えようもなく、美しかった
男性的な少女なのか、女性的な少年なのか、そんな区別すら溶けていく。
「初めまして、
紅梅色の唇が天上の音を奏でる。アーモンド形の瞳が緩やかに細められ、美しさを具現化したような貌が微笑みを浮かべた。
「年は十七ですから、あなたの一つ後輩ですね。どうぞ美琴とお呼びください」
彼の声帯が震える度に、空気が歓喜の声を上げるかの如き錯覚が胸中に去来する。きっと世界は彼を中心に回っているのだろう。そう信じさせるに足る根拠(美しさ)を、その人物は持ち合わせていた。
「あ……」
「立ち話もなんですから、
流麗極まる動作で薄手のカーディガンを羽織った美琴さん――君かもしれない――の後に続き、今来た道を引き返す。その間、伊乃里さんはこちらを気遣うような光を湛えながらも、しばらくすれば慣れると笑っていた。
「まさかとは思うが寝てたのかい? 美琴ちゃん」
「そのまさかだよ。やっぱりあの椅子は買って正解だったね」
待ち侘びたのだろう、事務机に肘をついてこちらを招く所長とそんな会話をしながら、美琴さん、あるいは美琴君は私の対面に当たるソファへすとんと腰を下ろした。当然真正面から向かい合う格好になったことで、改めて頭がくらくらし出す。
「自己紹介は済んでいると思うけど、こちら上留美琴ちゃん。高校二年生で、うちではアドバイザーとして働いてもらってる」
滔々と話し出した所長は、日本人にしては厚い唇をひん曲げるようにして笑うと、勝ち誇ったように付け加えた。
「性別は不明!」
いたずらっ子のように笑う所長がどういうつもりでその表情をしているのかは分からないけれど、その言葉は一切の疑念なく私の中で消化されていった。対面のソファに腰かける人物は、黒い革と対比されるかの如く少しだけ露わになった真っ白い肌も、その体躯も、どちらであっても納得できるだけの造りをしていた。中性的という概念を人型に整形しても、きっとこれほどの存在は出来上がらないだろうほどに。
「なにせ見た目には全く判断できないようにできてるからね。脱がせてみるまで分からない、いわばシュレディンガーの美琴なわけだ」
「僕は心身共にれっきとした男ですよ――――少なくとも九割は」
美琴君は満面の笑みを浮かべる所長を相手にそう異を唱えると、同じようにいたずらっぽく微笑んだ。
ケラケラと笑う二人を伊乃里さんが静かに窘め、本題へと引き戻す。
次の瞬間には所長から美琴君へ質問が飛んでいた。
「君にはどう見える?」
現状を短くまとめる言葉すらない状態での、ひどく抽象的な問い。これまでの話を一通り聞いていたはずの私ですら、もし問われたとすれば間抜けに聞き返していたに違いない。
けれど、美琴君は打てば響くように答えを口にした。まるで初めから何を問われ、どう返すべきか知っていたかの如き対応。
「このままでは解決できない可能性が高い。ここは大人しく電話を掛けた方がいいよ」
すらすらと――といっても所長のそれと比べれば冷め切った語り口で――彼は告げる。それはアドバイスというよりも、神託といった方がしっくりくる様相だった。
「電話ねぇ」
心底嫌そうな顔で、所長は渋る。その隙に伊乃里さんが問うた。
「電話というのは、
「うん。捜査五課なら有用な情報を持っているはずだから」
「あの狐に助力を乞うのはなぁ……本当に我々じゃ無理かい?」
「三人ともこの件とは相性が悪すぎるよ。努力や能力の問題ではなく、人間性という点でね」
「くっそー!」
私の頭越しに繰り広げられている会話は、ひどく異様に思えた。
あれだけべらべらと専門知識を披露して見せた所長と、明らかに常識を逸脱した能力を持つ伊乃里さん。その二人が、見た目には中性的なだけの――もちろん尋常ならざる美しさではあるけれど――少年である彼の言葉に一片の疑いも差し挟まない。そもそも彼は先ほどまで自室で寝ていたと言いながら、今日の調査結果を聞く様子もない。ミス・マープルだって結論の前に他人の話を聞くというのに。
考えれば考えるほど、対面の少年が得体の知れないものへと変わっていく。どこか硬質な言葉が、世界の全てが褪せて見えるほどの美貌が、寒気と共に背筋を滴り落ちた。
気を紛らわすために、所長へと目を移す。渋々と、心の底から嫌そうに顔中をひん曲げながら、蜘蛛の如き指が固定電話のボタンを押していた。
「芳賀沼だ」
つっけんどんに名乗るや否や、所長は矢継ぎ早に――おそらく相手の返事も聞かず――問いを投げかけていく。
けれど、どうやら相手の返事は芳しくないようだった。
「今更私を相手に守秘義務も何も無いだろう! こっちは君が家に隠しているモノを啄本ちゃんに教えることだってできるんだ。適当な言い訳はよせ」
まるっきり悪役のような脅し文句を立て続けに吐いた後、一拍の沈黙。その後は所長が受け身に変わる。どうやら電話口の相手が口を割ったらしい。
情報を聞き終えたらしい所長が挨拶もそこそこに受話器を置くと時を同じくして、差し出されたメモ用紙が伊乃里さんの手へと渡る。
その様子をぼんやりと眺めていたら、所長がほくほく顔で声を上げた。
「喜べ樹唯ちゃん。それらしき目撃証言が上がったらしい」
「どこですか!?」
腰を浮かせた私を諫めつつ、彼女は言う。
「本川木駅の交番さ。不良に絡まれたと駆け込んできた少年が突然消えたというから、十中八九、
「行きます」
今度こそ立ち上がった私は、鈴の音のような、けれど力強い声が制止されて足を止める。
「待ってください。焦っても良いことはありません。今日はもう遅い時間ですから、明日にしましょう」
言われて、時計を見る。既に短針は八を指していた。
渋々ながらその提案を呑み、明日の集合時間を定めてから事務所を後にする。
いつの間にか半月は高く昇っていた。だというのに、商店街を照らす光はあまりに弱々しい。
その景色は、常に不安と共にやってくる。まるで当たり前のように常識外のことを口にする彼女らへの、そしてそんな人物に頼り切っている今の自分への不安。こんな場所を、本当に一人きりで彷徨っている空への不安。寒気と恐怖がそっと、その冷たい指先を私のうなじへ押し当てる。
今更、どうしようもない。
ただ一言そう呟いて、私は大股に駅へと歩を進めた。
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