CHAPTER7  2018年9月22日午後6時46分

 「……探偵も、こういうのに慣れてるわけではないんですね」

息も絶え絶え、一単語ごとに呼吸を挟みながら、私はとりあえずそれだけ口にした。

 それくらいしか、口にすべき言葉を持たなかった。

 同じようにぜえぜえと肩で息をしながら、伊乃里いのりさんは苦笑らしきものを唇の端に引っかけて言った。

「そう、ですね。こういうのは私の担当ではないもので」

「分担があるんですか」

「ええ。と言っても少し複雑なので、今は説明している暇はないのですが」

その言い草を追求する気力は、今の私には無い。

 体中が火照り、まるで燃やされているかのように熱い。だらだらと流れ落ちていく汗でいたるところの服が肌に張り付く。薄汚いビルの壁にもたれかかるのは気が引けて、膝に手をついたまま全身で荒い呼吸を繰り返していた。

 隣の伊乃里さんも同じようなものだ。汗だくの女が二人、夕暮れ時に路地裏でぜえぜえと呼吸を繰り返している様は、傍から見れば異様に違いなかった。

 「とりあえず、一昨日あの不良少年たちが絡んだのは内海うつみそら君で間違いなさそうです」

と、荒い呼吸の間隙を縫って、彼女はここ半日の調査結果を口にした。

「あれだけ気が立っていたのは想定外でしたが」

冗談のつもりだろうか、彼女はそう言って汗の滴る頬を緩ませる。

 私たちがこの残暑の中を全力疾走する羽目になったのは、つまるところそのせいなのだった。

 昨日に引き続き本川木駅までやってきた私たちは、駅前を中心に道行く人々に空の目撃情報を訊ねて回り、ついには空と揉めた不良少年グループを見つけ出した。

 問題は、その少年たちと空とのいざこざが、私たちが考えていたような一方的なカツアゲではなく、双方向的な喧嘩だったことだった。

 彼らが喚き立てた内容によれば――ほとんどが要領を得ないものだったけれど――どうやら彼らは一昨日の夜、空を脅かして遊ぼうと思い立ったものの、挑発に応じて空が殴りかかったために喧嘩になり、更には空が消えたり現れたりするものだから一方的に攻撃される羽目になり、最後には交番に逃げ込まれたため見逃さざるを得なかったのだという。

 そうして溜め込まれたフラストレーションが、私たちに向いたというわけだった。

 空の奴、見つけたら一発殴ってやる。

 「……いつきさん。これ以上走れますか?」

返事をする体力も惜しくて、黙って首を横に振る。こめかみから流れてきた汗が左右に飛んだ。

「わかりました」

とだけ言うと、数瞬だけ考える様子を見せた彼女が、毅然と述べる。

「樹さん、おそらく、今からとても驚かせてしまうことになると思うのですが、ひとまず安全が確保できるまでは、黙って私の指示に従っていただけますか」

神妙な顔で、伊乃里さんは言う。

 透明人間に催眠術、更には安楽椅子探偵もびっくりな少年。今更これ以上に驚くこともないでしょうに、と高をくくって頷く。

 同時に、どこからか足音が聞こえてきていた。きっと、時間的猶予はそう残されていない。

「――――交代よ、れい。彼女を連れて安全なところまで逃げ切って」

その言葉の意味を問うべきか否か。路地の入口を見据えながら思案した刹那、それが私の耳に飛び込んできた。

「あー、クソ。つべこべ言わずに全員殴り飛ばしときゃ良いのによ!」

それは隣から飛んできた。

 声音は濁っているけれど、声量はかなり大きくなっているけれど、紛れもなく伊乃里さんの声。手際よく髪をポニーテールに結び直すその白い指先も、ほっそりとした横顔も、伊乃里さんのものだ。

 けれど、違うと、本能が言っていた。彼女は違うものだと、身体の奥底で何かが叫ぶ。

「いいか、樹唯ゆい。オレは戻。戻ると書いてレイだ。伊乃里と呼んだらぶっ飛ばす」

こちらを睨むような眼光。それは確かに彼女と同じぱっちりとした瞳のはずなのに、ただ少し目つきが悪くなっただけなのに、その奥にある光は決定的に、絶対的に、異なっていた。

 「質問は後だ」

私が何かを言う前に、戻と名乗った彼女はそう釘を刺す。そうしてどこか乱雑な、野良犬を連想させる雰囲気を纏った彼女は、路地へと顔を覗かせた金髪の男へと目を向けた。

「嗅ぎつけやがったな。さーて、どうしてやろうか」

まるでサンタを見つけた幼子の如く純真に瞳を輝かせた彼女が、ぐいと私の肩を押して遠ざける。

 よろめいた視界で、彼女のほっそりした肢体が跳躍した。

 まるでワイヤーアクションのように、夜空に彼女が弧を描く。そうして彼女は、金髪の男の顔に突っ込んだ。流星、あるいは弾丸。彼女の踵が男の顔に突き刺さる。

 昏倒した男を踏み越え、ターゲットはその後ろへ。殴りかかり、投げ飛ばす。喧嘩なんて口喧嘩以外に覚えのない私では何が起きているのかほとんど分からないけれど、体格の良い男が三人ばかり宙を舞ったことは理解できた。

 瞬く間に数人が野太い悲鳴を上げ、ひび割れたアスファルトと熱烈なキスに興じだす。それを尻目に、戻さんがこちらへ猛然と突進してきた。

 あ、と声を上げたときにはもう、彼女の黒髪が視界の端に。

「舌ぁ噛むなよ!」

 視点が上昇し、身体を浮遊感が包む。シャンプーの香りが鼻腔を満たしたところで、体が重力を振り切った。

 赤子か子犬かのように抱きかかえられているのだと理解するまでに数秒。そのまま彼女が常軌を逸した力で跳躍したのだと理解するまでに更に数秒。路地から飛び出し、後方へ流れ去って行く景色に眩暈を覚えるまでに数十秒。

 一分も経つ頃には、完全に男たちを振り切っていた。ついでに私の頭にも酔いが回り切っていた。

 ――――それでも。例え吐き気がしていようが、眩暈がしていようが、それを見間違えることはない。移ろいゆく景色の中でもくっきりと、薄ぼんやりとわだかまる暗闇の中でもはっきりと、私の目は、脳は、意識は、間違いなくそれを認識した。

「止めて!」

叫ぶが早いか、彼女の腕から逃れるために暴れる。落ちたら危ないとか、彼女が痛いかもとか、そんなことは一切考慮していない。

 ただこの目に飛び込んできたあれだけが、私の頭を埋め尽くしていた。

「何してんだ馬鹿! 危ねぇぞ!」

「彼がいるの――――空がいたのよ、あそこに!」

 指差した先はビルの上。地上の灯りがギリギリ届かない暗闇の縁。藍鉄色の夜空に一番近い、飾り気のない灰色の向こうに人影。特別視力がいいわけでもない私では、色彩と背格好を判別するくらいがやっとだけれど、それでも空だという無根拠な確信があった。

 停止した戻さんの腕から抜け出し、ビルの入り口へと回り込む。雑居ビルらしく幾つかのテナントが色とりどりの看板を掲げる中、震える足に鞭打って階段を駆け上る。

「ホントにあのガキか? よく見えたのかよ」

「私が空を見間違えるわけないわ」

会話に使う時間も体力も惜しんで、階段を二段飛ばしに駆け上がった先に、屋上への扉。ステンレス製のちゃちなそれを体当たりで開けて、外へ。

 屋上は、地上よりも少しだけ強い風が吹いていた。髪が煽られて視界に黒い線が入る。

 その向こうに、彼は佇んでいた。

 男にしてはやや小柄な輪郭に、暗闇が滲んでいる。

 ――――その体の抱き心地を、私は知っていた。

 パステルカラーの服が風を孕んでヒラヒラと舞っている。

 ――――その服と柔軟剤の香りを、私は知っていた。

 サラサラと、雲の垂れ込める今日の夜空と同色の猫毛が膨らむ。

 ――――その髪の触り心地を、私は知っていた。

 もう少し強い風が吹けば、きっと指先から解れて、砂のように、綿毛のように飛び去ってしまう。

 そんなことを思わせる、頼りない、けれど愛おしい背中を、私は知っているのだ。

 「……空」

そう呼んだ私の声は、これ以上ないほど震えていた。

「……どうして」

と、彼は言う。ひどく弱々しく、けれど硬い声で。

「探したのよ」

「どうして。……さよならって、言ったでしょ」

「納得いかなかったからよ。理由も何も説明しないで、一方的にさよならなんて。そんなので私が黙って引き下がるわけないって、あなたならわかっているでしょう」

 風が止む。少しだけ静かになった屋上に沈殿する薄闇をほんの僅かに波立てて、彼が振り返った。

 ああ、と嘆息する。それと同時に腹立たしかった。

 穏やかな顔つきは何も変わっていない。少し痩せたようで、家出中の生活が改めて心配になる。少しだけ泣きそうな様にも見えるその表情が、私の心臓を握りつぶした。

「それでも」

「嫌よ」

一歩踏み出す。

 このまま近づけば消えてしまうかもしれない、そんな恐れを振り払うように、大股で。

「もっとちゃんと説明して」

一歩。

「家出ならそれでもいい。匿うくらいしてあげる」

もう一歩。

「……別れるなら、それでもいいわ」

手を伸ばせば届くところに、彼の顔。

「でも、黙って消えるのだけは許さない」

そう言った私は、泣いていたかもしれない。

 伸ばした手が暗闇の滲んだ頬に触れる寸前で、彼は静かに微笑んだ。泣きそうに、情けなさそうに、それでいて決定的に、揺らがない意志がそこにあった。

 彼がそんな顔をするところを、私は一度しか見たことがなかった。

「ごめん」

 彼の姿が解れていく。見る間に輪郭が透き通り、反対側の闇が透け始める。

 彼が消えていく。パステルカラーが闇に呑まれ、声が遠くなっていく。

「待って!」

私の叫びは虚空を揺らすばかりで、彼には届かない。固く握りしめた拳から、服の裾が逃げていく。

 またしても、私の眼前で彼は透明に――――刹那、横合いから白いものが飛び出した。

 伊乃里さん、もとい戻さんの腕だ。風切り音と共に突き出されたそれは、彼がいるだろう虚空を正確に腕の中へ閉じ込めた。けれどやはり何を捉えることもなく、暗闇に穴を穿つばかり。

 一秒前まで確かにそこに立っていた彼の姿は、気配は、既に雲散霧消していた。

「クソッ、逃げられた!?」

「……ダメでした」

今度こそ、私の頬を涙が伝うのを知覚する。まともに発音できたかすら怪しいそれを、どうやら戻さんは聞いていないみたい。

「……おかしい。おかしすぎんだろうがチクショウ!」

煌びやかな外界とは隔絶された屋上の暗闇に、カウベルを思わせる叫びだけが木霊していた。

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