CHAPTER5 2018年9月21日午後4時8分
ふと顔を上げると、
「
数拍、互いに言葉を探したところで、伊乃里さんが先陣を切った。どこか腰の引けた言い方で。
「……どういう意味でしょう」
「樹さんにとって、今この状況は慣れないものだと思います。無理をしているようには見えませんが、疲れたり、辛かったりしたら遠慮なく仰ってくださいね」
「……お気遣いありがとうございます。けれど、これは私が望んだことです。黙って待っているのは性に合わないので」
と、言い放ってから、これではあまりにも不躾だと気が付いた。
どういえばいいかと悩む私へ、伊乃里さんは微笑む。
「大事なのですね」
「手放す気になれないだけです」
途端に気恥ずかしくなって、私は窓の外へと目を逸らした。飛び去っていくビルの向こうで、西日が煌々と輝いている。
「とても強い思いなのですね。なにしろ、あの事務所に辿り着けたのですから」
耳に届いたのは、いつぞやの所長と同じような物言い。私の知らない常識に基づいた言葉が、ひどく興味をそそる。
「あの事務所には何かあるんですか」
「結界――――と呼ぶのが正しいかはわかりませんが、一種の暗示をかけてあるのです。そもそも必要ではない方、必要であっても緊急性の低い方などは、存在に気が付かないか、気が付いたとしても、訪れるには至らないようになっています」
どこか鈴の音を思わせる口調に一切の変化を見せず、隣に腰かける美女はそう嘯いた。
十八年間積み上げてきた常識に穴を開けるかの如き内容に、けれど私はそれほど驚きもしなかった。慣れというものの恐ろしさが身に染みる。
もっとも、そんなこと信じられないと騒ぎ立てる気は毛頭ない。どれだけ胡散臭かろうが、彼女らはこうして空を探すために動いている。なら、そのやり方に横から口を挟んで足並みを乱す真似はしたくなかった。
「……不躾とは思いますが、樹さんは家出を考えたことはありますか?」
黙った私に気を遣った――――ようには見えなかった。どこか日本人形的な美を真摯にこちらへ向けていたから。
「子供の頃に、一度か二度は。私は親があまり家にはいなかったので、困らせてやろうと思ったくらいですけれど」
「そう、ですか」
「何か気になったんですか」
思わず尋ねると、彼女はどこか強張った笑みを見せた。
「……私は、家出というものを考えたことが無かったもので。少し気になったのです」
「仲の良い親子なんですね」
社交辞令的にそう答える。それくらいはするものだと、
けれど、伊乃里さんは伏し目がちに微笑みを薄める。耳から滑り落ちた長髪で、顔に若干の陰ができた。
「というよりも、あまり親という感じがしなかった、という方が正しいでしょうか。血がつながっていないというのもありますが、元よりあのような方ですから」
思わず軽く笑う。私に合わせるように、対面の美女も口角を吊り上げた。
「親に捨てられた子を引き取っておいて、『親になるつもりはない。君は私の助手兼調査対象さ』なんて言ってしまう方ですからね」
「……それは」
思っていた以上の常識外れ具合を前に、私の語彙力など無力だった。空なら、もしかしたら気の利いた一言も言えたかもしれないけれど、あの特殊技能を一日二日で真似できるはずもない。
私の絶句が生んだ沈黙を取り繕うように、彼女は慌てて続きを口にした。
「そんなことより、家出についてです。家出というものは、家庭内に何らかの不満があるときに選択するものですよね。ですが、
ではなぜ、と伊乃里さんは呟く。そこには同情も、憐憫もない。私への気遣いなど欠片もない。中途半端に共感されるより、よっぽど心地よかった。
「親との仲は悪くなかったはずです。それに、ただの家出なら私や友達とまで連絡を絶つ理由がわかりません」
「ご友人との間で問題があったわけではなさそうでしたものね。本人は、何も言っていなかったのですか?」
今度は私が目を逸らす番だった。隠したいわけでも、消し去りたいわけでもないけれど、それを口にすれば、私が何一つ彼の力になれなかったことが証明されてしまう気がして。
「……言いませんでした。彼からそんな話題が出たことはないし、何か悩みがあったのかすら」
最後の一言は、どうしても吐き出せなかった。代わりに飛び出していったのは、潰れかけた自意識を支える程度の意味しかない、なけなしの言い訳。
「でも、最後に会ったとき、彼は自分じゃ私を幸せにはできないって言い出したんです。昨日までそんな素振り無かったのに。だからきっと、何かを悩んでいるんです」
虚しく空気を揺らし、言葉は車内に溶けていく。何の回答にも、手掛かりにすらならないそれが生んだ沈黙は存外にむず痒くて、咄嗟に一つ訊ねた。
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