CHAPTER8  2018年9月22日午後8時30分

 「その様子だと、ひと悶着あったようだねぇ?」

既に見慣れた感のある所長のにやけ笑いも、今だけは少し癇に障る。

 もっとも、私がそれについて何かアクションを起こす前に、れいさんがポニーテールを振り乱して詰め寄っていた。

「……どういうことだ! なんだアイツは!」

「おや、戻ちゃん。君が出てきてるってことは、荒事になったみたいだね」

事務机を揺らした凄まじい剣幕も柳に風。平然と嘯いて、こちらを一瞥した。

「やあおかえり。事の顛末を聞かせてもらえるかい?」

 その有無を言わせぬ圧力に屈し、私は既に定位置となりつつあるソファに腰かける。戻さんも反対側のソファにどっかりと腰を落ち着けると、そのしなやかで女性的な容貌には似つかわしくない恰好でふんぞり返った。

 「まずは、彼女の疑問を解決してあげた方がいいと思うよ」

一瞬の沈黙に、給湯室から飛んできた雅楽が突き刺さる。まるで狙い澄ましたようなタイミングのそれが、疲労した頭に麻酔の如く浸透していく。

「それもそうか。……戻ちゃん、君について説明したのかい?」

「あ? してるわけねぇだろ」

その返答はきっと、二人にとって当たり前のものだったのだろう。見る者の脳髄を揺らす仕草でお茶を運ぶこと君も、事務机に肘をついている所長も、同じように苦笑を浮かべた。

 「いつきゆいちゃん、彼女は戻ちゃんと言ってね、簡単に言えば伊乃里いのりちゃんの第二人格さ」

こちらを向いた琥珀の双眸が相も変わらず滑らかな舌の回転を総動員してそう解説する。漠然とした予想とそれほど違わぬ答えは、私の心をそれほど波立たせることもなく、正解したクイズの解説程度の感動を以て処理されていく。

「陰中の陽を意図的に具現化させた存在でね、彼女自身が苦手とする身体操作を中心に荒事を担当してるんだ。普段精神干渉に割いている分のリソースを身体操作で占有できる分、より十全に肉体を使いこなせるって寸法さ。とはいえ第二人格と一口に言っても主導権は伊乃里ちゃんの方にあるし、基本的な好悪なんかも共通していてね。これはそもそも自己暗示による意図的な人格生成という点から考えれば第二人格というよりも心理学的でいうところのペルソナと呼べる存在だと考えた方が――――」

 「だああ! うるせぇ! 長ぇんだよ話が!」

止め処なく溢れ出した解説に嫌気がさしたのか、戻さんの怒声が事務所の中に木霊する。私を飲み込んでいた情報の奔流が掻き消され、やや不満げな顔の所長も渋々講演に終止符を打った。

 そうして降りた沈黙の中で事情を話すよう促され、戻さんはふんぞり返ったまま話し出す。

 「聞き込みの途中でバカ共に絡まれたんだよ。しつこかったんでオレが呼ばれた。そしたら逃げてる途中で捜索対象のガキを見つけたんだが、逃げられた」

「逃げられた? さしもの君でも透明人間相手では分が悪かったかい?」

「そうじゃねぇ。オレは確かにヤロウを捉えた。完全に不意打ちだったし、オレの読みも動きも完璧だった。そもそもアイツが透明になり切ったのは、オレがアイツの体を掴む一瞬前だ。なのに逃げやがった! なんなんだありゃあ!」

喚き立てる戻さんからこちらへと一対の琥珀が動く。どこか胡乱なその光とは裏腹に、厚い唇から零れ落ちた声は興味に満ちていた。

「君も見ていたんだろう?」

ゆっくりと、自分の記憶を振り返りながら頷く。

「彼は少しずつ透明になっていきました。多分、五秒くらいかけて。その間彼が動く素振りはなかったし、全力で逃げていても、あれを避けられるとは思いません」

今日見た限りでも、戻さんの動きは人間離れしていた。そんな人が全力で突進したというのに、それを覆せるだけの運動神経が彼にあるとは思えなかった。

 目の前で消えていく彼を前に、ただ何もできなかった不甲斐なさが私の手に拳を握らせる。腹に力を入れていないと、声が震えそうだった。

 対面の戻さんが組んでいた足を戻して立ち上がる。美琴君の姿は既に無い。

 どこか無気力を孕んで居座る沈黙は、けれど所長によって高らかに切り裂かれた。

 真っ白い蛍光灯の光を反射して、中古のビデオデッキみたいなプラチナブロンドがふわりと広がる。そこだけを切り取れば写真集にも載せられそうな光景だけれど、その下に見える表情はおよそ他人様に見せられるようなものではなかった。

 歓喜から苦悩へ、苦悩から思案へ、思案から歓喜へ、心電図のように一瞬で移り変わるその表情に合わせて、銀髪もまた掻き乱されたりこねくり回されたりと忙しなく在り様を変える。

 その果てに、所長は大きく息を吐いた。

「そういうことかい……迂闊だった。完全に私の落ち度だ」

それは独り言だったのだろう。首を傾げた私へと飛んできたのは、解説ではなく質問だった。

「彼が透明人間なら――――どうして、服まで透明なんだ?」

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