CHAPTER9  2018年9月22日午後8時38分

 質問の意味は当たり前のように私には見当もつかない内容だった。

 もっとも、そもそも所長とて返答を期待していたわけではないらしかった。私がちんぷんかんぷんだと白旗を上げるよりも早く、二の句が飛来する。

「透明人間と言われて出てくるのはどんなビジュアルだい?」

どこか愉しんでいるかのように煌めく琥珀色の瞳が私を凝視する。こちらは返答を要するらしい。

「……包帯とか、サングラスとか?」

「そう、そう、それだ! まあクラシックに過ぎるといえばそうかもしれないが、透明人間といえば古今東西、包帯で覆われたサングラスの男だろう? コートや帽子なんかもそう、ともかく物を身に付けているんだ。透明なのはそいつの肉体だけと言い換えたっていい。……こんなこと、服や付属品は人間の範疇に含まれないことも考えれば当たり前の話さ」

そこで一旦舌の周りを止め、所長は狼を連想させる色の瞳を二つとも、そして更には骨ばった指先まで私へと突き付けた。

「君はさっき『少しずつ透明になっていった』と言った。ということは、彼は服を脱いだわけじゃないんだろう?」

わざわざ肯定することが億劫に思えるくらい、それは自明だった。

「ええ。彼は服ごと透明になりました」

「何か布のようなものを羽織るような動作は?」

「してません。輪郭から少しずつ透明になっていったんです」

お茶のおかわりと、所長用のマグカップをお盆に載せて戻ってきた伊乃里いのりさん――髪型が元に戻っているから多分そう――もまた、穏やかな口調で同調する。

 それを受けて、所長は椅子の背もたれに体重全てを預けた。

「……決まりだね。最初から間違っていたんだ、私は」

普段とはまるで異なった、暗く、澱んだ声だった。

「どのように、間違っていたのですか?」

責めるでも、呆れるでもなく、どこまでも淑やかに、伊乃里さんが問う。その端麗な顔面には幽かな微笑みがあった。

いつきゆいちゃんは、『透明になった』と言った。その表現は決して間違いじゃない。だが私はそれに引っ張られ過ぎた。透明人間だと早合点したのさ。透明であることと透明人間であることには、天と地ほどの差があるのにね」

いつものようにどこか愉悦を含んだ、けれど今はそこに嘲笑を孕んだ笑顔で、所長は言う。

「透明人間は、突き詰めれば透明なだけの人間だ。服を着るし、食事もするし、風邪だってひく。つまり実存の人間としての在り方は揺らがない。雑踏で肩がぶつかることだってあるんだ、高速で突進されれば捕まるだろう。加えて透明で無くなれば定義が狂うから、そう都合よく現れたり消えたりできるはずもない」

つまり空は透明人間ではない、と所長は結論付けて、マグカップのコーヒーを啜った。

 じゃあ何なのか、と私が口にする前に、所長はコーヒーを飲み下して続きを吐き出す。

「問題はその後さ。彼は透明人間ではないが、透明であることに変わりはない。有名どころでは天狗の隠れ蓑なんて話もあるが、どうやらそれじゃない。――――彼は何かに執着する様子もないんだろう?」

所長の視線の先には伊乃里さん。その白く細い首が上下に動くのを確認し、所長はあっけらかんと言い放つ。

「じゃあ霊の類でもない。残るはテレポーテーションか? それなら大体の辻褄は合う」

「彼と喧嘩した少年たちは、どちらとも取れる証言をしています。今のところ反証はありませんね」

「だが、それにしては在り方が合わない。そもそも内海うつみそらという少年は、やや内気だが平凡な少年だ。遥かな土地への飛翔とは、どうにも結びつかない。……樹唯ちゃん、確認だが、彼はどこかへ逃げ出したいとか、そういうことを口にしたことはあるかい?」

飛ぶように流れていく議論が、唐突にこちらへと流れを変えた。

 面食らいながらもとりあえず首を振って否定の意を表す。けれどそれだけで済ませるのは何とも堪え難くて、蛇足と理解しながら付け足す。

「彼は、あまりそういうもの……自分の願いとか、要望とかは口にしないんです。いつも人の意見ばかり優先するというか、どこか他人事というか」

 不意に、所長が琥珀色の双眸をこぼれんばかりに見開く。

 一瞬の後、洒落っ気のしの字もない事務所に、歓喜の叫びが木霊した。

 思わず顔をしかめた私を前に、悪びれる様子もなく、所長は得心がいったとばかりにうんうんと頷くばかり。この様子では自身の声がどれだけ大きかったかも認識の外でしょう。

 けれどその楽しげな仕草も長くは続かなかった。

 「彼が最も好きな場所はどこだい? それも人生最後に訪れたいと思うような、格別の思い入れがある場所は?」

と、所長は身を乗り出す。一拍前の歓喜など既に一片たりとも残っていない、真剣そのものの顔で。

 少しの思案の末、私は半信半疑で口にした。

「……学校か、後は偶に二人で行ってたビルの屋上、かしら」

「可能性の高い方は?」

「……多分、学校」

「よし。すぐ向かった方がいい。伊乃里ちゃん、戻ちゃんに、抱えて走るように言ってくれるかい」

 話が全く見えない旨を口に出したとき、所長は初めて見る神妙な顔つきをしていた。

 冷酷なほどにはっきりと、残虐なほどにゆっくりと、くすんだ銀色が蛍光灯の光に反射して輝くそのきらめきとは似ても似つかぬ真剣な声音で、彼女は告げた。

「状況から考えて、彼は自身の異能を使いこなせていないんだ。多分、そろそろ

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