CHAPTER12 2018年9月22日午後9時17分

 「そら!」

気が付けば、私はそう叫んでいた。

 フェンスの向こう、一歩どころか半歩ズレれば一直線に地面へ落下するだろう地点。在り得ないほどに不安定なそこに、彼は立っていた。

 どこか透き通った背中。柔らかそうな猫毛が風に吹かれて揺れている。

 見慣れた姿目掛けて、私は屋上を一目散に駆け抜けた。

 こと君の隣で――何故ここにいるのかという問いを呑み込みながら――足を止める。そしてもう一度、彼の名を呼んだ。

「空」

意図せず震えたその声は、彼に届いたようだった。

「――――ゆい

同じくらい震えた声で、彼は言った。

「何をしているの、そんなところで」

彼は答えない。それどころか、こちらを見る素振りすら無かった。

「お願い。答えて」

絞り出した一言は、よれよれの紙飛行機みたいに力無く墜落していく。金網が、まるで防音壁のように立ち塞がっている気がした。

 ほんの数メートルほどが、ひどく遠い。

 けれど、彼の言葉は、容易くフェンスを越えてこちらへと投げかけられる。

「何にもないんだ」

流暢な話口だった。まるで、あらかじめ用意した原稿を読んでいるみたいに。

「これといった趣味も、夢中になれるほど好きなものもない。それでも指示に従っていれば褒められたから、そうしてきた。父さんが言うから本を読んだし、母さんが言うから家の手伝いをしたし、先生が言うから勉強したし、友達が言うから漫画を読んで、スマホゲームをやった。高校は親と先生が勧めるところにした。こんな風になってからは、普段絶対しないようなことまで、言われるままにしてみたよ――――どれも、面白いとは思わなかった」

そこで一度言葉を切り、彼は失笑した。

「そんなことだから、今になって将来の夢とかやりたいこととか聞かれて、何も答えられなかったんだ。だって、誰もおすすめの将来の夢なんて教えてくれないから」

彼は笑う。いいえ、確かに笑ってはいるけれど、彼は決して、一片たりとも面白いなんて思っていない。ただ、笑いという形を模しているだけ。

「バカみたいでしょ? 結局僕には何もない。他人の欠片の寄せ集めで、そこにあるのは空白だけだ。薄っぺらい一般論で武装して、人並みのふりをしただけの空っぽなんだよ」

「そんなこと……!」

その続きは、出なかった。喉に飴玉でも詰まったみたいに。

「あるよ。あるんだよ。だって、僕は本当に君が好きかどうかすら自信が無いんだから」

それが、多分彼の最後通牒だった。

 結局一度もこちらに目を向けることなく、彼は口を閉ざす。話は終わりとばかりに、彼はフェンスに預けていた体重を取り戻した。

「こんなの、君を不幸にするだけでしょ? だから、空っぽは空っぽらしく、無くなった方がいいんだ」

 何かを言わなければ、と思った。

 何でもいい、何か口にしなければ、この件はここで終わってしまう。

 美琴君は動く気配がない。れいさん――もしくは伊乃里いのりさんかもしれない――も、何も言わない。だから、私がここで何かを言わなければ、空はいなくなってしまう。

 何か、何でもいい、何か、声を掛けなければ――――。

「――――うるさい!」

頭が結論を出す前に、舌が勝手に吐き出していた。

「勝手に結論出して、勝手に悟って、勝手にいなくなる? 冗談じゃない!」

止まらない。堰を切って溢れ出した恨みつらみは、吐瀉物のように止め処なく口から飛び出していく。

「それなら最初から言いなさいよ! いなくなるときも、さっきも、何も言わなかったくせに! 最後の最後に説明して、自分だけすっきりして死ぬなんて、自分勝手にもほどがあるでしょう!」

ひと息に叫びきって、それでも彼に発言権を渡さないように息を吸う。

「私は、親が忙しかったから、思い出があまり無いわ。学校行事に来てくれた覚えも、旅行に行った覚えもない。友達も恋人もいなかったから、誰かと遊んだ覚えもない。だから、あなたとやりたいことがたくさんあるの」

止めない。言葉は止めない。彼がこちらを振り返るまで、あのどこか透き通って見える瞳がこちらを向くまで、絶対に喋るのをやめはしない。

「旅行に行きたいわ。できれば温泉がいい。京都とか奈良でもいいわ。それから雪が見たいわ。関東のべちゃべちゃしたのじゃなくて、綺麗な雪よ。スキーができれば尚更いい。それと、私、ゲームもしてみたいの。昔からあるシリーズのやつよ。二種類あるから私とあなたで片方ずつにすれば、効率がいいと思うの。――――あなたは、全部やったことがあるのかもしれないけれど」

そこで、彼はようやくこちらを一瞥した。とっさに口を噤んだ私の隙をついて、彼が言う。

「うん。旅行は何度かあるよ。あんまり覚えてないけど。……ゲームは、昔のやつならやったよ。友達がさっさと飽きちゃったから、最後までやらなかった。雪は――――昔連れていかれた気もするけど、全然覚えてないや」

「なら、全部やるわよ。そのほかに思い付いたら、それも。……それでもまだ、空っぽで、死にたいって思うなら、それもいいわ」

一度言葉を切り、一歩、足を踏み出す。そして、フェンスの向こう側へ届くかどうか、ぎりぎりの声量で囁いた。

「そのときは、私も一緒に死んであげる」

そう言った私は、多分笑っていたと思う。

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