CHAPTER13 2018年9月23日午後2時19分

 一頻り頭を下げて感謝を述べた少女が去って行くのを見送って、芳賀沼はがぬま伊乃里いのりは事務所の扉を閉めた。

 夕日を目にしていた伊乃里にとってはやや薄暗くも感じる事務所の中では、所長であり養母でもある智音ともねが退屈を隠そうともせず、受け取った一万円札を机にしまっている。その、年季の入った銀細工を思わせるプラチナブロンドへ向けて、彼女は問いを発した。

「所長、今回の件、結局はどのような話だったのですか?」

伊乃里は智音の指示に従い、最終的な解決、それも最も望ましい形での解決へと漕ぎつけた。しかしながら、その過程で智音が見抜いた真実を耳にしてはいなかったのだった。

「ん? あー……どこまで話したんだったかな?」

内海うつみそらという少年が、ただの透明人間ではないという辺りです」

いっそ優雅と形容してもおかしくないほどに淑やかな動作でソファに腰かけた伊乃里の言葉に応じて、智音はその少し厚めの唇を開いた。

「キーワードになるのは、本人が口にしたという『空白』と、いつきゆいちゃんが口にした『他人事』の二つさ」

そう言うと、彼女は舌なめずりをした。身を乗り出した拍子に、プラチナブロンドがマグカップを撫でる。

「人間は外界の観測を己の感覚器官に委ねる。そうするとね、必ず自分という観測者の存在が抜け落ちてしまう。望遠鏡をいくら覗いたって、望遠鏡そのものを観察することなんかできないだろう? あれと同じさ。とはいえ普通はそんなこと思わない。本能と常識安全装置があるからね。『我思う故に我在り』――――他の全てが疑い得たとしても、今何かを考えている自分だけは確かに存在するはずだってことさ」

何が面白いのか、智音はケラケラと笑い、マグカップのコーヒーを一口啜った。

「だが内海空という人間は違った。自己の定義、外界を観測しものを考える自分という存在を、他者の寄せ集めだと認識したんだ。他人に埋め尽くされただけの空白だとね。……その認識は致命的だよ。テレビの前の良い子は、ヒーローと並び立つ日は絶対に無いんだから」

そこまで言えばわかるだろう、と言わんばかりに、智音は琥珀色をした瞳を伊乃里へと向けた。

 返答を求められ、伊乃里はゆっくりと、その薄い唇を開いた。

「彼は――――のですか」

「そう! その通りさ! 我々が勘違いしていたように、彼は透明になったわけじゃない。ただ我々では観測できない外側に出てしまっていたんだ。それなら、服ごと透明になった理由も、戻ちゃんが避けられた理由も説明がつく。何せこの世界にいないんだ、見ることもできなければ、触ることだってできないだろうさ」

心底面白そうに、智音は喉を鳴らして笑う。一部始終を現場で見ていた伊乃里は、それほど屈託なく笑う気になどなれなかったが。

 長い黒髪を揺らして居住まいを正し、伊乃里は訊ねた。

「……それほど強固な認識があったのなら、どうして、最後の最後で彼は飛ぶのをやめたのでしょう」

伊乃里にとっては、それが本題だった。

 己を世界の外に押し出すほどの強い意識。それに基づいた覚悟であの場に至ったのなら、最後の最後で踏み止まったのは何故か。

 しかし、伊乃里の視線を真っすぐと受け止めた上で、智音はあっけらかんと言い放った。

「さあ? それは私には分からない。神のみぞ知るって奴さ」

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