CHAPTER1  2018年9月18日午後5時42分

 暮れかけた日が橙色に塗り潰すアスファルトの上で、私は足を止めた。

 この気温では鬱陶しさすら覚える髪とプリーツスカートが慣性に従って揺れる。微かに覚えた驚きを一呼吸で抑え込む。

 そして、できるだけ背筋をシャンと伸ばして、くるりと振り返った。

「……何か?」

刺々しさを隠す気もない声で駆け寄ってきた男を迎撃する。けれど、男は私の精一杯の敵愾心などどこ吹く風、人の好さそうな笑みを貼り付けた顔をハンカチで拭ってみせる。やけに丁寧な所作だった。こちらがもどかしさすら覚えるほどに。

「いや、気づいてもらえて助かりました。まだまだ暑いですね」

私が睨みつけていることになど頓着する様子はない。あくまでもマイペースに汗を拭っている。そらなら、こちらに気を遣う一言も即座に言っているところ。なのにこの男ときたら、悠々とハンカチをポケットにしまう余裕まで見せつけてから、ようやく本題とばかりに陽の残光に照らされた顔を引き締めた。

「少しだけ確認と、それからご提案をと思いまして。……一つ確認をさせていただきたい。あなたはいつきゆいさんで、捜索願の出されている内海うつみ空さんのご学友ということで間違いありませんね?」

無視したい気持ちをそっと抑えて、微かに頷いてみせる。とはいえこのまま相手のペースに乗るのは癪に触って、吐き捨てた。

「そういうあなたは?」

男はごまかすように笑みを浮かべる。それはどこか狐を思わせた。稲荷神の方ではなく、人間を化かして遊ぶ方の。

「これは失礼。私は県警刑事部捜査五課の朝霞あさかゆう一郎いちろうといいます」

黒いスーツの胸ポケットから取り出した警察手帳にも、同じ笑顔が貼りついている。紛れもなく本職の刑事らしかった。もっとも、外見は刑事よりも詐欺師と言われた方が納得できそうだけれど。

 私の疑念を知ってか知らずか――知ったうえで無視しているとしか思えないけれど――朝霞と名乗った刑事は洒落っ気の欠片もない黒縁眼鏡を押し上げ、西日を反射するレンズの向こうで目を細めたのだった。

「あなたが、内海空さんの失踪に関して事情を聴かれた際、透明になって消えたと証言したというのは本当ですか?」

 今度こそ、私は頬が強張るのを自覚した。

 ビルの向こうに沈みゆく太陽の発する叫びに呼応するように、私の中で苛立ちが弾ける。

「――――あれは」

その声が震えていることに気づいて、喉まで出かかった言葉を一度飲み込んだ。どうせならその厚そうな面の皮を叩き割ってやろうとばかりに力を込めて、無感情な狐目を睨む。

「あれは、気が動転していただけよ」

「そうですか」

あくまでも穏やかに、スーツを着た狐は眉を下げる。通り過ぎていく車のヘッドライトにも眉一つ動かさず、彼はどこまでも平坦に、平静に、そして滑らかに言うのだった。

「内海空さんは、一般家出人と判断されました。そのため、我々警察が積極的な捜査を行うことはありません」

「さっき聞いたわ」

そして受付の警察官にひとしきり文句を叩きつけもしたのだ。もっとも、眼前の男がそれを知らずに追いかけてきたわけでもないでしょう。何せ同じ警官なのだから。

 ふつふつと湧き上がる苛立ちを隠すつもりは、既にない。遠慮の要らない相手と判断したからであるが、ともすればそれすらこの朝霞という刑事の術中なのかもしれなかった。

「事件に巻き込まれた様子はない。自殺の疑いもない。他人を害する危険もない。しかも十八歳ならある程度自分で生きていける。……だから、いなくなっても大きな問題はない。そういうことでしょう」

煮えたぎるままに私の唇から零れ落ちる言葉の発する熱は、やはり朝霞刑事には届かない。木石の如く、凪いだ湖面の如く、あるいは亡霊の如く、スーツ姿の人影はただそこに在った。

「その言い方には語弊があると言わざるを得ませんが……ともかく、本題はこちらです」

素知らぬ様子でスーツの内ポケットから紙きれを一つ取り出す。しなやかな指先が差し出したそれは、名刺だった。

 思わず受け取ると、目がそこに印字された名前を反射的に読み取る。

 曰く、『芳賀はがぬま探偵事務所所長 芳賀はがぬま智音ともね』と。

「……これは?」

「御覧の通り名刺です。警察は捜索できませんが、民間ならその限りではありませんから。その分お金はかかりますが、もしよろしければ、こちらを頼ってみてもよろしいかと」

と、朝霞刑事は変わらぬ微笑みを湛えたままそう告げる。

「信用しろと?」

「ええ。――――もちろん、信用できないということであればそれも結構です」

男の口元が、少しだけ笑みを深める。それはまるで獲物を見つけた狼の如き――というよりも、どう料理すればより長く楽しめるか、吟味しているかのような笑いのようにも見えた。

「私から言えるのは、その名刺の持ち主は少々変わり者だということ。そして、それを加味して余りあるほど有能であるということです。……どちらに関してもね」

それだけを言い残し、彼は一礼して踵を返した。黄昏時、紫色に輝く空気の向こう側へと、どこか肉食の四足獣を思わせる体躯が消えていく。

 結局言いたいことだけ言って消えた男の残滓すら、生ぬるい風が持ち去っていった後になって、ようやく私はくたびれたローファーでアスファルトを蹴り出したのだった。

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