芳賀沼探偵事務所の事件手帖

奥野

第一部 空白の所在

CHAPTER11 2018年9月22日午後8時50分 

 ――――少年が浮いていた。

 無限の闇から滴った白銀の中、彼は文明ビル自然の狭間に立っていた。脱力した背中には生命力の欠片もなく、フェンスに押し付けられた服が苦しげにそよぐばかり。夜の滲んだ輪郭は、少し強めの風でも吹けば指先から解れて消えてしまいそうにも見える。蒲公英たんぽぽの綿毛をも連想させる立ち姿が、そこにはあった。

 「こんばんは」

その背に向かって、一歩一歩、まるで気負う様子もなく、美琴みことは距離を詰めていく。瞬く間に色を変えた景色にも、少年の姿にも、頓着する様子はない。まるで歩き慣れた道を歩くかのように自然に、同級生に挨拶するかのように気安く、どこか硬質な響きを帯びた声を上げた。

 暗闇の染み込んだ肩が大きく跳ね、彼の内心を雄弁に語る。

 それでも、振り返った彼は取り乱してはいなかった。

「こんばんは」

「そんなところに立っていると、危ないですよ」

「……そうですね」

少年は、美琴の言葉に頷きはしても、忠告に従うつもりはさらさらないようだった。顔を背け、再び夜空を見上げながら、ひどく平らな声で言う。

「でも、ここ、とても心地いいんですよ」

 美琴はただ、彼の透き通った背を見つめていた。

 それは、ひどく異様な光景。浮世離れした美貌の少年と、現実離れした雰囲気の少年が、夜の帳に囲まれたビルの屋上に二人。

 月が操るスポットライトの一歩手前で、美琴は足を止めた。

「そのまま行くつもりですか?」

 対する少年は、ただ墨色の空を見上げている。夜風にさざめく背中に答えを浮かべて。

 美琴はといえば、焦ることも、急ぐことも、答えを求めることもせず、月光の縁に佇む。

 そして、言うのだった。

いつきさんは、置いていくんですね」

初めて、少年の纏う空気が揺らいだ。それは湖面に生じた同心円のように、あるいは落ち葉の踊りのように、彼の全身に広がっていく。

 それは、透徹していた少年が見せた、初めての人間味。

「彼女はあなたを探していますよ」

「……知ってます」

「実を言えば、僕も彼女に雇われた人間なんです」

返答は無かった。

「行くというなら、無理に引き留めはしません。でも、その前に少し話をしませんか?」

「話、ですか」

「はい。話です。本当か嘘か分からない、少し不思議な話でもどうです?」

微笑んだ美琴を、その麻酔のような美貌を、少年は既に見ていない。

 けれど、それもいいか、と頷いたのだった。

 夜空が瞳を閉じる。月光は途絶え、少年の小柄な肉体を夜が抱きしめた。

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