CHAPTER8  2018年4月23日午後11時47分

 手元の端末で好き放題に写真や動画を取ろうとする集団を掻き分けて、朝霞あさか祐一郎ゆういちろうは路地を塞ぐようにして張られた黄色いテープをくぐった。

 滑るように歩く長身は、慌ただしく行き交う警官たちの中ではやや目立つ。黒髪も、黒縁眼鏡も、スーツ姿も、この場においては没個性的であるにもかかわらず。

 その場の約半数から飛んできた敵意に満ちた視線は黙殺して、彼は正面で待ち構えている男へと金属質な声を投げかけた。

「お待たせしました。概要をお聞きしても?」

「ああ。ガイシャは四十代男性。異常な力で殴られたものと見られ、現在意識不明の重体だ。凶器は不明だが人間の拳と見て間違いないだろうな。鞄は現場に残っていたが、財布だけが見つかっていない」

広げたメモ帳を参照しながら、男は情報を読み上げる。喧騒に紛れるような低い呟きを聞き終えてから、祐一郎は感情の読めない態度で告げた。

「同一犯ですか。目撃者は?」

「今のところはゼロ。通報から一時間ちょっととはいえ、奴の犯行なら望みは薄いだろう。とりあえず、いつもの頼む」

祐一郎とは対照的な、ぶっきらぼうな言い草だ。だが彼は眉一つ動かすことなく頷き、承知したことを全身で表すかのように足を止める。

「ええ。――――少しばかり集中します」

そんな言葉と共に、彼は舞のように流麗な動作で黒縁眼鏡のフレームを摘まんだ。

 路地の闇を払うために設置された灯りを吞み込んで黒く嗤うつるを耳から引き抜き、己の目と世界とを隔てるレンズを取り払う。

 それは一種の儀式であった。普通という枠の中で生を受けた人間が、枠外の異能を行使するために必要な行為。それを経て、はじめて祐一郎は己の身に宿った異能を行使し得る。

 彼が宿すのは『見る』という異能。世界を俯瞰し、細部を凝視する力。

 距離、壁、大きさ――――あらゆる障害は彼の眼の前に首を垂れる。

 視野、色覚、動体視力――――あらゆる限界は彼の眼の前に膝をつく。

 路地に存在する全てを見極めて、彼はだらりと垂れ下げていた眼鏡をもとの位置に戻す。それを以て彼の異能は鳴りを潜め、彼は彼岸から此岸へと舞い戻るのだ。

「壁に転々と足跡があります。分かりやすいのはあの――――」

と、彼のほっそりとした指が数十メートル頭上で唸る室外機を指し示す。

「――――室外機の上でしょう。積もった埃で綺麗に足形が取れています」

「壁を蹴ってビルの上まで登ったのか」

心底から呆れを表明した男の言葉を肯定し、彼は蝋人形のような微笑みを浮かべる。

「おそらく、逃走経路はビルの屋上伝いでしょう。周辺の屋上から中に入った形跡がないか調べる必要がありそうですね」

聞くが早いか、男は手近なところにいた部下を捕まえて指示を飛ばす。それを終えてから、改めて男は祐一郎を一瞥した。

「相変わらず、便利な力だな」

「陰陽道の方が応用は利きますよ。私は『視る』ことしかできないのですから」

祐一郎の返しに、男は声をあげて笑ってみせる。

「それは極めた変人どもの話だ。俺程度の術者じゃ、精々が紙の式神を飛ばすか、簡素な結界を張る程度だ」

それに比べて、と男は羨望を隠すこともなく祐一郎の横顔を見つめた。

「お前のそれは代々のもんだろ? 羨ましいね、まったく」

 男が言うように、祐一郎の異能は相伝性、つまり遠大な目標を掲げた一族が、その達成を願い受け継いできたものであった。望まれない子故に母の姓を名乗っているが、彼の体にはごまかしようもなく、十簑とおみの――その名は『遠見』に通じ、『全てを見通す』力を求める一族――の血が流れているのである。

 それを思い返してなお、祐一郎の表情は動かない。照れているような、拗ねているような、怒りを秘めているような、あるいは何も思っていないような、玉虫色の微笑みを浮かべているだけだ。

「……せっかくもらったものですからね。精々上手く使いますよ」

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