CHAPTER7  2018年4月21日午後5時35分

 「なぁ」

スマートフォンの液晶に表示されるSNSの画面をつまらなさそうに眺めたまま、神田かんだあやめはおもむろに声を上げた。

 くつろいだ様子で座布団を占拠している姿は、既に彼女がこの家に馴染んでいることを示している。百七十センチ近い長身は肉のなさを強調するように折り畳まれているが、当人は気にした様子もなく、己の手に収まった直方体を眺めている。

「お前は、実家に帰れとは言わないんだな」

それは隣人と初めてまともな会話をするときのような口ぶりだ。画面から視線を上げることはせず、天気の話でも振るように呟く。彼女と朝霞あさか祐一郎ゆういちろう以外に人のいないワンルームでなければ、誰に届くこともなく虚空に溶けていくような発言。

 それを拾い上げ、祐一郎は少しだけ笑みを滲ませた声で応えた。

「帰りたいんですか?」

意地の悪いボールを放り、彼は手に持ったコップから水道水をあおる。彼の容姿はワイン片手にホテルの窓枠に体重を預けていても違和感のないものだが、現在は彼が体重を預けているのはくすんだアルミ製の流し台であり、手に持っているのは水道水の入った安物のコップだ。

 「んなわけあるかよ」

彼の変化球はフルスイングでかっ飛ばし、菖は鼻で笑う。

「けど、普通は帰れって言うだろ」

「そうですね。ほとんど見ず知らずの男の家に転がり込むくらいなら、実家に帰るのが普通でしょう」

滑らかな低音で紡がれる返答に潜んだトゲに目を止め、菖はばつが悪そうに再び視線を液晶画面へ移した。

「ですが」

と、彼は目を伏せる。

「全ての人にとって、実家が安全で快適な場所とは限りません。よく知りもしないで一般論を振りかざすのは無責任でしょう」

「……バカみたいな理由だったらどうすんだよ」

菖はもごもごと、教師の説教に言い訳する生徒のように口の中で呟く。それは室内の生温い空気を微かに揺らし、同時に祐一郎の顔に微笑みを浮かべさせる。

「一般的にどうあれ、あなたにとって重要なのでしょう?」

言葉を切った祐一郎の視界で、菖が折り畳んでいた手足をぐんと伸ばす。肉付きの悪い、けれど女性であることは十分に感じさせる肢体をフローリングの上に投げ出して、彼女は目を閉じた

「……髪だよ」

数拍の後、その口角から音が滴る。

「アタシの髪、赤いだろ」

と、彼女は少し長くなった髪――――広葉樹が落葉間際に見せる命の輝きを思わせる髪を摘まみ上げ、室内を照らす灯りに透かして見せる。

「染めてるわけじゃねぇんだ、これ」

おどけるようにそう言うと、彼女は微かに緑がかった茶色の瞳だけを動かして、立ったままの祐一郎を見上げた。

「珍しいですね」

「かっこいいだろ? ばあちゃんから遺伝したんだ。あたしのばあちゃん外国人でさ、マジで美人なんだよ。なんでじいちゃんなんかと結婚したのか全然わかんねぇの」

菖は目を細め、まるで思い出の写真でも眺めているかのように笑う。

「この髪をアタシは気に入ってるし、自分に似合ってると思ってる。でもまあ、普通の色じゃねぇから周りからは白い目で見られるんだよな」

言葉の切れ目に、忍び泣くような笑い声がこだまする。

「前に一回、黒染めしたんだ。高校受験のとき。その髪色だと印象悪くて受からねぇって言われてさ。これでも中学までは良い子だったんだぜ?」

心底おかしい、とばかりに彼女は頬をひん曲げる。

 その様子を、祐一郎の無機質な双眸が静かに見下ろしていた。

「一か月か二か月くらい、黒髪でさ。鏡見るたびに誰だこれってビビるんだよ。こんなのはアタシじゃねぇって。だから受験終わった日に落として、二度と染めねぇって決めた。……まあ、入学式の日に呼び出されてめちゃくちゃ説教食らったけど。その後黒染めしないなら来んなって言うから学校行くのやめた。元々ずっと不良扱いで友達もいなかったしな。家出は、親が高校卒業まで黒くしとけ、そんで学校行け、ってうるさかったからだよ」

馬鹿みたいだろ? と彼女は笑う。獲物を追い詰める肉食獣のように、そうする以外に道のない道化師のように。床に身体を投げ出した姿と合わせ、それはまるで死にゆく兵士をも連想させた。

「でも帰るつもりはねぇ」

彼女は慎ましやかな胸をへこませて、細く、長く、吐き出した。

「なんなんだろうな。悪いとは思うし、馬鹿だとも思う。――――子供みてぇな意地張ってるだけか」

それだけ言い置いて、菖は、話は終わりとばかりに上体を起こした。

 そっぽを向いた煉瓦色の後頭部に、祐一郎は磨き抜かれた宝石のように滑らかな声を投げかける。

「誇りに思っているんですね。その髪を」

「……あー」

言われた菖はと言えば、川面に映る己の姿を初めて目の当たりにした猫のような顔だ。

「違いましたか?」

「いや……うん。そうだな。言われてみればそうかもしんねぇ」

自分に言い聞かせるような呟きの後、彼女は顔の横に垂れ下がった一房を摘まみ上げる。橋から落ちた米粒を拾うかのように。

「でも、普通に黒かったら、もっと楽だったんじゃねぇかな」

 一瞬の沈黙を踏み越えて、菖は思い直したように煉瓦色の糸束を放り棄てた。

「やめだやめだ。それよりお前だよ」

日本人にしては白すぎる手をヒラヒラと振って話題を遠ざけると、肩越しに振り返って光を取り戻した瞳を祐一郎へ向けたのだった。

 「いい加減、敬語やめたらどうだよ」

 そうして突きつけたのは、先ほどまでの穏やかさなど枯れ落ちた、ぶっきらぼうな言い草だ。けれど祐一郎は特に気を悪くした様子もなく、菖のすぐ脇、一つだけ存在する窓の前に腰を落ち着けた。

 すりガラスの向こうには、ただ夜だけが広がっている。そこにあるのは、暗く、昏く、冥い闇。世界を呑んでなお余りある黒にして、場面を区切る緞帳だ。

 それを背に、祐一郎は地蔵のように微笑んでいる。それは開幕を告げる司会者のようでもあり、また夜を縄張りとする亡霊のようでもあった。

「物心ついたときからこんな感じでして。今更変えるのも大変なんですよ」

「どういう子供だったんだよ」

「普通の子供でしたよ」

と、彼は応える。鏡のように平坦で、されど何を映すこともない声で。

「ただ、私は妾腹の子でしたから。分を弁えろと叩きこまれてきました」

まるで天気でも告げるかのように、彼は言う。

 それは、砂浜に寄せ返す細波に似ていた。

 菖はそこに、無造作に石を投げ込む。

「ショーフクってなんだよ」

「妾、つまり正式な妻や恋人ではない相手との子供という意味です。簡単に言ってしまえば不倫相手との子ですね」

納得したのかしていないのか、菖は気のない返事一つでその質問に終止符を打った。

「つまり不倫相手との子だから遠慮しろってことか。ドラマみてぇだな」

「確かに、そんなようなものですね」

と、彼は静かに肯定する。

 絵画のような微笑みを浮かべるその顔の前に、菖はずいと自分の顔を近づける。それは大地を滑る蛇のように、音のない動きだった。

「なら、なおさらアタシ相手に敬語はやめろよ。お前の生まれとかアタシには関係ねぇだろ」

 机の上に身を乗り出して、菖は祐一郎の眼鏡を覗き込む。蛇を思わせる瞳が黒真珠をしっかり捉えていた。まるで、親猫が子猫の首筋を咥えるように。

「いきなりタメ語が無理なら呼び捨てからでもいい。次からアタシを呼ぶときは菖な。『さん』はつけんなよ?」

「……それは」

「いいから。その代わりアタシもユーイチって呼ぶ。もう一か月も一緒に暮らしてんだ、今更遠慮したってしょうがねぇだろ」

己の目を覗き込む女を見下ろして、祐一郎は胸中で嘆息した。

 明るく室内を照らす電球の下で輝く瞳には、いつぞやと同じ強い決意が宿っている。こうなった女がてこでも動かないことは、彼は身をもって知っていた。

 何せ彼女は、彼が突きつけた条件を、ここまで全て達成しているのだ。それも予定より速いペースで。それだけのことをやってのける人間を説得するのは骨が折れるどころの話ではない。無駄な労力で必要なエネルギーが食い潰されてしまうことが容易に想像できる。

 どうするべきか、一瞬の間に脳を回し――――そして彼は諦めた。否、諦観という皮を被ることに決めた。それが覆い隠すものから目を背けたまま。

 彼は言う。

「わかりましたよ、菖」

どこまでも穏やかな声で。

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