CHAPTER6 2018年4月6日午前11時8分
一瞬で全身に突き刺さる視線の中を、智音はまるで自宅の廊下を歩くかのように悠々と横切る。痩せた長身に、比率を無視したような長さの手足がくっついている姿はどこか蜘蛛を思わせた。
「
会議室の最奥で岩に刺さった剣のように座っていた
智音の後ろに控えている伊乃里が、更に一段階小さくなった。
「相変わらず不快極まりないな、芳賀沼」
「そう怖い顔するなよ、らいちゃん。私と君の仲だろう?」
「どの仲だ。話を聞く気がないなら帰れ」
「呼び出しておいて随分な言い草じゃないか。まったく」
無遠慮にぼやきながら、智音は蛍光灯の灯りに古びた結婚指輪のような色の髪を煌めかせ、手近な椅子を手繰り寄せて座る。
捜査員たちがそれぞれにすべきことを成すべく動き回る中で、それはまるで王の如き泰然とした態度だった。その横に控える伊乃里が可哀そうに見えるほど。
礼儀知らずの闖入者が腰を落ち着けるのを見届けて、綾子は無造作にコピー用紙の束を突き出した。
「例の連続恐喝事件及び傷害事件に動きがあった」
「それは聞いたよ」
「……所轄の捜査で犯人の目星がついた矢先のことだ。その候補の一つだった不良グループが重傷を負って発見された。現場の状況や周辺での聞き込みから、おそらく仲間割れによる喧嘩だと見ている。もっとも、異能者一人が他の人間全員を叩きのめしたと言う方が妥当だろうが」
智音と伊乃里の双方が、突き出されたコピー用紙の束、その一枚目に目を落とす。もっとも、智音の場合は目を落とすというより、目の前に掲げると表現した方が正確な姿勢だが。
「現場の様子はそこにある通りだ。発見された被害者は六名。全員が虫の息だった」
薄いコピー用紙に印刷されているのは、被害者が搬送された後に撮影された空虚な空間の写真だけ。だが主の体に戻ることが叶わなくなった血や、胃から戻されたと思しき半固体の水たまり、そしてかつては人間の一部だったはずの肉塊などがその凄惨さを無言で語っている。
「既に全員が病院で治療を受けている。もっとも、いつ死亡の連絡が来てもおかしくはない状態だそうだが」
あくまで淡々と、眉一つ動かすことなく綾子は語る。
「以前被害に遭った捜査員と今回の被害者では、負傷の程度が明らかに異なる。我々は咄嗟の反撃と全力の喧嘩の違いだと見ているが、『剥がし屋』としてはどう見える」
獲物に爪を突き立てる猛禽のような眼光が智音へと突き刺さる。
当の智音はと言えば、一対の琥珀で書類の向こうを見透かしながら、弾んだ声音で言い放った。
「何かが引っかかってるんだろう? そうじゃなきゃわたしを呼ぶ意味がない」
その言葉が、綾子の鉄面皮にひびを入れた。
「……咄嗟の反撃の方が思いがけない力を発揮する場合も少なくない。身内相手の喧嘩で全力を遺憾なく発揮できる人間かどうかも確証はない」
「違うさ」
綾子の唇から滴り落ちる言葉を蹴り飛ばして、智音は喉の奥で笑った。猛禽を思わせる顔から表情がすっぽりと抜け落ち、まるで彫刻のようになっていることはまるで意識の範疇にない。当然、それを見た伊乃里が申し訳なさそうな顔で気配を消していることにもお構いなしである。
「君のことだ、病院への調査も進めてるんだろう」
「……調べさせている」
「捜査員と同様の負傷で受診した人間は見つかっていない。違うかい?」
無言。綾子は古びた人形の如く無感情に、ただ対面でニヤニヤと笑う女を睨みつけている。それは何より雄弁な肯定だった。
「図星だね。そして君の懸念は当たりだ。犯人は浸食が始まってると見た方がいい。確証はない。けど最悪の可能性ってほど不確かでもない。現実的に考えて、警官には警告が必要だろうさ」
書類の束を虚空で泳がせながら、智音はヘラヘラとまくし立てる。そうして話は終わりとばかりに書類を突き返し、立ち上がろうとした。
綾子は凛とした低音で、それに否を突きつける。
「意味深な言い回しでごまかすな。きちんと考えを説明しろ」
雑然とした会議室の中で、腹の底を殴りつけるような綾子の低音は地震の如く周囲の鼓膜を揺らした。
横面を張られた格好の智音は、遊びに行く直前に宿題の処理を命じられた子供のような顔で再び腰を下ろす。隣の伊乃里も苦い顔だ。
「同じような怪我をした人間が見つからない以上、犯人はこれまで、少なくとも横崎市を拠点に活動し始めてからは異能を使って他人に危害を加えていないということになる。警官が殴られる前の恐喝事件でも暴力は振るわれてないんだろう? つまりこれまでの犯人は、異能を使わないだけの理性を持っている人物だったと推測できる」
琥珀色の双眸は問いかけるように、それでいて挑むように綾子へと視線を投げかける。
「だが、今回は違う。明らかに力任せに暴れている。そこに引っかかったから、君はわざわざわたしを呼んだんだろう?」
それは落語家よりも流暢で、大学教授よりも早口で、ダムから放り出された水よりも勢いよく流れ去っていく情報の奔流。
「わたしは心理学の専門家でも、犯罪捜査のエキスパートでもない。だから一度人を殴れば心のストッパーが外れて云々なんて話はしないし、犯人が本当に一人かなんて話も興味はない。わたしは異能解析の専門家だ。だからその観点から浸食が始まってる可能性を考慮すべきだと警告するだけさ。浸食というのは異能を繰り返し使うことで稀に発生する現象のことだよ。端的に言ってしまえば、脳が異能を使うための器官に変わっていくんだ。異能も人間の力の一部である以上、常に脳によって制御されている。だが脳は人間が人間として生きるために与えられた器官であって、異能の制御なんて想定されていない。この摩擦が浸食を引き起こす原因だ。浸食が始まれば、異能を使うたびに少しずつ脳の領域が異能の制御に食い潰されていくのさ。脳の領域の割り振りがおかしくなると言い換えてもいい。使えば使うほど異能は強力になっていくが、反比例して人間性や自我が失われていく。そして最後には強力な異能を使うだけの獣となり、人間性の残滓、強く刻まれた目的や思い、感情に引きずられて動くだけの人形になり果てる。浸食とはそういうものだよ。――――ああ、付け加えればこの現象は主に変異性異能の持ち主に起こりやすい。これは相伝性異能の持ち主は異能を発現させるために肉体に手を入れることが当たり前に行われるからであって、そもそも脳が異能の使用に耐えうるだけのスペックを持ち合わせている以上、異能の存在と脳の機能との間で摩擦がほとんど起きないんだ。そこから考えればこの犯人が変異性異能の持ち主だって推測の根拠が増えるとも言えるね」
最後の音が会議室の喧騒に溶けて消えたとき、綾子の鋭利な顔立ちには暗雲が立ち込めていた。
それは智音が早口言葉のようにまくし立てた解説への辟易であり、同時に最悪の可能性が更新されたことへの苛立ちである。それでも背筋を凛と伸ばし、即座に横の部下へ指示を飛ばす気丈さこそ、彼女を捜査五課長という立場へ押し上げた燃料であった。
「……言いたいことは分かった」
と、綾子は判決を告げる裁判官より静かに告げる。
「浸食によって理性が失われ、見境なく暴れる可能性があるということだな」
「理解が早くて助かるね」
減らず口は黙殺し、彼女は言う。
「捜査員にはその旨警告しておく。礼を言う」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます