CHAPTER5 2018年4月6日午前0時48分
コンビニエンスストアのネオンと街灯の灯りだけが照らす駅前で、彼の革靴がメトロノームとなって一定のリズムを刻む。終電間際まで仕事をしていたとは思えない足取りだ。
住宅街に入ると、更に世界は暗く、静かに沈殿していく。彼の家があるエリアはいわゆるベッドタウンであり、とりわけ日付の変わった現在では道を歩く人の姿も絶えて久しい。まるで世界に一人だけ取り残されたような、恐怖にも似た興奮が胸に芽生えるような風景だけがそこにはあった。
その風景を独り占めしている、感情とは最も縁遠いところにいる人間である祐一郎には、そんなものは生まれなかったが。
そこでの出来事も既に思い出と化した公園の横を通り過ぎ、自宅たる安アパート前の階段を上る。
そうして上り切ったところで、彼は停止した。
「何故」
無意識化で発せられた一言が唇から滴り、薄い床板で同心円を作る。それが伝わる先に、玄関扉を背に座る人影。
薄暗闇の中で明るく目を惹く煉瓦色の髪が、春風の中でそよぐ。すらりとした長身を抱え込むようにして座るその人物を、祐一郎は知っていた。
絶句した祐一郎の気配を感じたのか、その人物――
「よう、随分遅いんだな」
「……また会うとは思いませんでしたよ」
「迷惑なら帰るさ。今度は行くアテがなくもねぇ」
「終電はもうありませんが」
ぴしゃりと突きつけた祐一郎から、菖の視線が外れる。ばつが悪そうな顔は、一瞬前の発言の信憑性を著しく下げた。
溜息をつくのをすんでのところで堪え、祐一郎は静かにポケットから玄関の鍵を取り出す。
物々しい音と共に鍵が開く横で所在なさげに佇む長身に道を譲り、中へ入るよう手で合図した。
「悪いな、急に押しかけて」
祐一郎が座布団に腰を落ち着けるのを待って、菖はそう切り出した。
前回彼女が転がり込んできたときとは異なり、祐一郎にはスーツから着替えるだけの余裕があった。部屋着として使っているスウェット――前回は彼女に着替えとして貸し与えたものだ――に袖を通し、コップに水を汲む間に呼吸を落ち着け、己の武器として磨き上げた微笑みを浮かべるだけの気力を養ってから、彼女の正面に座る。それだけの時間、彼女は律義に待っていたのだった。
「それは別に構わないのですがね」
やや苦みを含んだ微笑を浮かべ、彼はあくまでも穏やかな態度で彼女の謝罪を受け流す。その姿は穏やかな好青年といったところでありながら、黒縁眼鏡の奥に浮かぶ一対の黒真珠だけは、決して笑っていなかった。
「以前あなたを泊めたのが、二週間ほど前のことです。事情がどうあれ、若い女性がこんな時間に、初対面も同然の男を頼る頻度としては少々高すぎるのではないでしょうか」
原稿を読み上げるアナウンサーのような滑らかさで、祐一郎はそう言い切る。それだけの台詞をぶつけられた対面の女はと言えば、良く焼けた煉瓦のような髪を灯りの元で煌めかせるようにして首を傾げた。その陰に、痣のような痕が覗く。
「つまり何が言いたいんだよ」
やや不機嫌そうにも聞こえる低音で、どこか日本人離れした容貌の女は言う。
「何か深い事情があるなら、手助けすることもできるということです」
端的にまとめられた言葉が、祐一郎の口から流れ出す。それは室内の空気を震わせ、また菖の顔をしかめさせた。
「結局それかよ」
「ええ。多少なりとも事情を聞かせていただければ、あなたの知らない解決策を提示できるかもしれません。もちろん、あなた自身のことも信用することができます。逆に言えば、教えてもらえなければ、私はいつまでもあなたのことを信用することができないわけですね」
朗々と言い終え、祐一郎は言外に問いを含ませるように微笑みかけた。彼の顔立ちは、一般的に見て醜いと判断される類ではない。平凡な他者と比べれば秀でていると言ってもいい。この微笑は、彼が生きる上で身に着けてきた一つの武器であった。
それを、菖は掌一つで乱雑に払いのける。
「その変な笑いをやめろ。寒気がする」
部屋の隅へと視線を向けながら、菖はヒラヒラと手を振るなりそう吐き捨てた。
「……人の顔に対して、随分な言い方ですね」
舌に乗せた言葉が体裁を整えているかどうか、祐一郎はまったく自信が持てない。ごくわずかに握りしめていた自尊心をフードプロセッサーに放り込まれたような気分が、彼のへその辺りで渦を巻いた。
そんな彼の努力を知ってか知らずか、対面の蛇はごまかすようにヘラヘラと笑う。
「ああいや、テメェの顔自体は悪くねぇと思うぜ。その笑い方がどうにも気に入らねぇってだけだ」
「そうですか……それは失礼」
「いや、アタシも悪かったな」
安アパートの薄い壁に囲まれた室内に何度目かの緞帳が下りる。祐一郎一人が暮らすには十分だが、菖一人が加わっただけでやけに狭く見える程度の室内に、深夜の静謐が流れ込んでいた。
開演のブザーは、菖の唇から。
行き場のない感情のぶつけ先に自身の頭髪を選んだか、菖は日本人離れした色の髪をかき乱しながら、諦観を吐き出した。
「わかった、わかった。話す」
ため息一つ、菖は蛇にも似た顔立ちに決意を浮かべて真っすぐに祐一郎へと向けたが、一瞬で目を逸らした。
「家出……ってわけじゃねぇ。いやまぁ家出もしちゃあいるが、随分前からだから今はあんま関係ねえ。ずっと友達の家で世話になってたけど、その友達がっていうか、友達のグループが揉めたんだよ。んで居づらくなって……金がねぇわけじゃねえんだ。ただ大した額はねぇし、家も身分証もねぇからバイトもできねぇし。この間泊めてもらった後、ちょっと落ち着いてたんだよ。だから大丈夫だと思ってたのに、また揉めて……今度こそ帰れなくなった」
ばつが悪そうに俯きながら、菖はそれだけ言い切ると、合格者欄に己の名前がなかった受験生のような顔で笑った。
「助けてくれるかもしれない相手が、アンタしか思い浮かばなかった。虫がいい話なのは分かってる。手持ちは少ねぇができるだけ払う。経験がねぇからどれだけ価値があるかはわかんねぇけど――――体で払ってもいい。だから……ちょっとの間でいい、ここに置いてほしい」
そう早口にまくしたて、菖は座卓に打ち付けそうな勢いで頭を下げる。その様は、恋人の父に結婚の許しを請う男にも似ていた。
そのつむじを静かに見下ろして、祐一郎は黒縁眼鏡を静かな動作で押し上げる。
「……申し訳ないですが、軽々に頷ける話ではありません。私はまだ、あなたが信用に足る人物かどうかも、判断できないのですから」
頭を下げたまま、拳を握り締めて感情を表現している菖を無感動に見下ろして、祐一郎は続ける。穏やかに、密やかに、彼は本の読み聞かせをするかのような態度で、言葉を紡ぎ続ける。
「ちょっとの間とは、具体的にどれくらいなのか。その期間であなたは何をするつもりなのか。それによって問題が解決する見込みがどの程度あるのか。それでも失敗した場合どうするのか。そういった具体性があなたの発言にはありません。それでは提案とは呼べないでしょう」
菖が顔を上げる。蛇を想起させる顔立ちに、試合に負けたアスリートのような表情をのせて。
「あなたは先ほど家出をしていると言いました。ご両親が健在なら、残念ながら行政の援助は難しいと考えるべきです。現状では真っ当なアルバイト等も難しい。ですが、例えばネットカフェ等のパソコンでフリーメールを取得し、住所は実家のものを拝借すればセキュリティの緩いところには潜り込める可能性はあるでしょう。そもそも日雇いなどならそういったものを必要としないこともあります」
経験はないため正確ではない、と但し書きをつけてから、祐一郎は生徒を諫める教師のような柔らかさを加えて、最後にこう付け足した。
「親に頼らないで生きていきたいのなら知恵を磨くべきです。……その手伝いくらいならしてもいいでしょう」
菖に向けて、祐一郎は微笑む。それは兄が妹に向ける笑顔のようであり、同時に贄を見下ろす悪魔のようでもあった。
「期限は一週間。その間に当面の金策と、それから先どうするか決めること。それができなければ、諦めて実家に帰ること。この二つを約束していただけるなら、一週間の衣食住は保証しましょう」
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