第二部 傀儡の情動

CHAPTER22 2018年5月31日午前0時37分

 「揃いも揃って、警察署を何だと思っている」

捜査五課の長としての立場と共に与えられた執務室に入るや否や、渡会わたらい綾子あやこは最大限不満を乗せた声で言い放った。

 開口一番に飛び出したそれは高空から降る猛禽の咆哮にも似てひどく威圧的だ。並の人間なら委縮して姿勢を正すところだが、今回ばかりは蛙の面に水である。

 「この方が、互いに面倒が少ないと思いまして」

不法侵入者はミケランジェロが兜を脱ぐほど均整の取れた肢体をソファに沈めたまま、穏やかな物腰でそう宣った。

 部屋の中心に置かれた来客用ソファを占拠していたのは、眼が眩むほどの美貌を持つ少年――――上留かみどめことだった。

 一本一本が最高級の絹糸で作られているかのような黒髪の奥で、モナ・リザが裸足で逃げ出す顔立ちが綾子に向けられている。女性的な少年であり、男性的な少女でもある万華鏡に配膳を待つ子のような微笑みを浮かべて、彼は綾子を見ていた。

 その圧倒的で徹底的で絶対的な美がもたらす精神への干渉は、綾子にとって顔の前を羽虫が飛ぶ程度のものだ。だが、その中に潜む視線が、彼女にそれ以上の発言を許さず椅子へと座らせた。

 その視線は、ネズミにとっての猫、カエルにとっての蛇、シマウマにとってのライオンと同義だった。僅かでも彼の機嫌を損ねれば頭から食い千切られる。そんな悪寒にも似た確信が彼女の背筋を撫で、その精神に緊張という名の弦を張る。

「用件を聞こう」

声が震えなかったことに心底から安堵しながら、綾子はそれだけを言い放った。

 己に与えられた執務机越しに相対し、彼女は努めて真剣に彼へと向き合った。

 そんな視線をそよ風のように受け止めて、美琴は微笑んだまま言う。

「閉幕を伝えに来ました」

「意味を聞いても?」

「例の連続強盗事件は終わりです。新たな証拠が出ることはありません。もちろん、今後事件が起こることもない」

綾子が眉をひそめても、美琴は動じない。

「それを伝えるのは、貴様の言う越権行為ではないのか」

「今回は特別サービスですよ」

暗闇を払う蛍光灯を全身に浴びたまま、しばし綾子は沈黙した。

 美琴はだと言った。それはすなわち、綾子をはじめとする五課、及び検察にいたるまで全ての動きを止めろということだ。

 釘を刺しに来たのだ、と綾子は直感する。何に、とは聞くまでもない。犯人が自首という形で彼女の手元に転がり込んできてから、ずっと検討していた可能性――証拠を捏造し、無理やり有罪にすることを避けるために、だ。

 「事件を終わらせたのは貴様か?」

少しの沈黙を経て、彼女が口にしたのは状況説明の催促だった。

「手助けをしただけです。逃避から始まった話が、必要な覚悟が定まったことで終わりを迎えた。それだけですよ」

綾子の淡い期待を打ち砕くハンマーは、ひどく簡潔に振るわれた。要領を得ない回答がこれ以上ない正答であることは想像できても、綾子にとっては煙に巻くようなものであることに変わりはない。

 それでも美琴が口を閉ざした以上、綾子にこれ以上の情報が与えられることはないのである。蜘蛛の糸は切られた。後に残るのは月も星もない空の中途で光る切れ端だけだ。

 「……今回の事件は一般の被害者だけで十五人、被害額は二十万ほどに上る。捜査員の被害を合わせれば重傷者は三十人近い。幸い死者こそいないとはいえ、それだけの罪を犯した人間を野放しにしろというのか」

質の良さを感じさせる調度品が並ぶ室内に、猛禽の威嚇を連想させる響きが満ちる。質素な、けれど質の良さが滲む執務机に肘をついたのは僅かに残る対抗心の発露だが、そんな動作よりも彼女の声に潜んだ怒りの方がよっぽど雄弁だった。

 ピンと張った室内の空気を、控えめな笑い声が上書きする。

 それは酒気にも似た揺らぎだ。敵意も、緊張も、自意識すらも削り取る魔性の震えが空気を伝い、室内の全てを彼のための舞台装置へと切り替える。

 「公私混同とは、あなたらしくないですね」

昨日のテレビの話題でも振るかのような調子で放られた言葉は、綾子の横面をこれ以上ないほど強く張り飛ばした。

 捜査五課の使命は、理外の存在の秘匿である。五課が守るのは法ではなく秩序、それも理外の存在を安定させるための秩序に過ぎない。下手人を捕らえることも罪を償わせることも、あくまで国家の要請に従った結果であって、本来彼女たち利害の存在にとっては無価値な行為なのだ。

 そして美琴は綾子たちが危惧する危険性全てを否定した。

 発言の信憑性など論ずるに値しない。美琴が口にした以上、それは揺るぎのない真実なのだから。

 つまり、五課の目的は達成されたのだ。

 それは同時に、綾子の怒りが無用なものであることを意味していた。

 「……承知した。逮捕状の請求はしない」

たっぷりと時間をかけてから、ようやく彼女はそれだけ口にした。

 それだけで満足したのだろう、美琴はソファから立ち上がる。

 刹那の逡巡の果てに、綾子はせめてもの意趣返しとばかりに問いを投げた。

「貴様は常識やら倫理やらというものを貴ぶのだと思っていたが」

「それは勘違いですよ」

足を止めた美琴が振り返る。

 眉目秀麗を煮詰めて固めた顔には、柔和な微笑みが浮かんでいる。

 だが黒々と輝く瞳には、冷たい何かが潜んでいた。

「だって、万華鏡の模様を全て覚えるのは手間でしょう?」

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