CHAPTER1 2018年3月22日午後11時43分
雨が降っていた。
冷たい雨だ。季節を冬に戻さんとするかのように、空気から熱を奪い、桜を無慈悲に散らしていく雨。仄かな街灯の灯りを反射して、水晶を思わせる雨粒は世界の全てを洗い流すかの如く降り続く。時刻は既に深夜、住宅街は雨音だけが支配するコンサートホールであった。
その中に、男が一人。
スーツを隙なく着込み、飾り気のない黒縁眼鏡をかけた男である。ビニール傘を片手に家路を辿るその風体は、仕事帰りの会社員といったところ。だが、幽霊を連想させるほど滑らかな足取りと、眼鏡の奥にぼうと浮かぶ黒真珠の如き瞳だけがその印象を否定している。
そのすらりとした足が、水たまりに浮かぶ桜を踏み抜いた。
男の双眸が獲物を追う猫のように動き、視界の端に移りこんだそれを凝視する。今しがた己が水たまりを盛大に蹴り飛ばしたことなど、彼は欠片も意識していない。雨粒が作るカーテンが遮る先、小さな公園の中に一つだけ浮かぶ街灯の灯りを受けて浮き上がった亡霊。それだけが、彼の頭を占めていた。
ずぶ濡れの革靴が滑るように向きを変え、公園の砂利を踏み潰す。亡霊か、あるいは武道家のような足取りを支えているのは、好奇心でも、恐怖心でもなく、義務感であった。
雨音に交じって、じゃりじゃりと足音を立てながら彼は公園を突っ切り、亡霊だと認識した存在の前で立ち止まる。
その亡霊には、足があった。はっきりとした輪郭があり、呼吸に合わせて上下する胸があり――――男を睨む瞳には、光があった。
「こんばんは」
と、男は言う。迷惑な客をあしらうベテラン社員のように慇懃なその態度は、詐欺師を想起させる。だがその実、彼はそういった輩を取り締まる側の人間であった。
「何かお困りですか?」
間髪入れずに言葉を継いで、男は微笑んだ。喋り続ける子供を見下ろす教師のように、壇上に立つ政治家のように。
もっとも、穏やかな彼へ投げ返されたのは良く研がれたナイフであったが。
「テメェには関係ねぇ」
平時より色の濃くなったベンチに腰掛けた亡霊、ではなく女は、開口一番そう吐き捨てた。
女性にしてはやや低い声音が雨音を圧倒し、気温をさらに一段低下させる。濡れた服が張り付き、輪郭が露わになった全身から放たれる敵意が男を呑み込んだ。
海藻のようになった髪の隙間から、切れ長の瞳がじっと男を睨みつけている。その様は獲物を狙う蛇のようであり、また天空の鳥を睨む猫のようでもある。ベンチにふんぞり返っているため正確な身長は推定できないが、女性にしてはかなり高い。酔いつぶれた海賊のように脚を投げ出して座る姿に色気はないが、煉瓦を思わせる色の髪と新雪の如き肌、そしてどこか蛇を思わせる鋭い顔つきには人目を惹く迫力があった。
「それは確かにそうですが」
と、男はどこまでも穏やかな態度。それは冬の日差しにも似ていた。
「これでも警官の端くれでして。こんな時間にそんな様子の女性を放置するわけにもいきません」
平静な態度で男は言の葉を重ねる。ビニール傘を叩く雨音の中、それはどこか喫茶店に流れるクラシックの如く。
「近くの交番までご案内しますので、そこで落ち着いてお話しませんか?」
地面に叩きつけられる水滴の断末魔を縫って、女の唇から舌打ちが飛び出す。
常人であれば苛立ちの一つもぶつけて立ち去りそうなほどの拒絶を目の当たりにしても、男は眉一つ動かさない。最初からそう作られた蝋人形のように。
「何か事情があるのでしょうが、それも含めて、力になれるかもしれません」
蛇の如き切れ長の瞳がするりと動き、男を真正面から睨みつけた。
数えきれないほどの水晶が二人の間を墜ちていく。
その果てに、動いたのは女。
肉食獣を思わせるしなやかさで立ち上がると、数センチほど高い位置にある男の瞳を覗き込む。唇を重ねる寸前の距離で止まったその様は、映画の感動的な一幕といって差し支えない。二人が初対面であることを除けば、であるが。
「いいぜ、そこまで言うなら行ってやる」
そうして女は微笑んだ。
「けど、行くのは交番じゃねぇ。テメェの家だ」
獰猛に、凶暴に、凄絶に。
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