CHAPTER3  2018年3月23日午後3時0分

 「私は本人に来いと言ったはずだが」

迫力ある低音が室内の空気を震わせる。座り心地の良さそうな革張りの椅子にふんぞり返った女の声だ。

 声の主が座る机には『捜査五課長 渡会わたらい綾子あやこ』の文字。それが指し示す通り、彼女は異能と称される超常的な力を以て行われる犯罪を取り締まるための秘匿された警察組織、その長たる人物であった。

 そんな人物が怒気を溢れんばかりに込めて発した言葉が室内に浸透する。引き絞られた弓の弦など目ではないほどに張り詰めた空気が、周囲に控える刑事たちの顔を一様に引き攣らせた。

 だが綾子は周囲の緊張などお構いなしだ。猛禽を思わせる顔に怒りをぶちまけて、正面のソファに腰かけた男女二人組を睨みつけている。短く切り揃えられた黒髪と、きっちり着込まれたスーツも相まって、並の犯人なら無言で手首を差し出してしまいそうな迫力を備えた眼光が二人組を射抜き、一挙手一投足も見逃さない。室内がもう少し暗ければ、その双眸は光って見えるかもしれない。

 その視線に晒され、蛇に睨まれた蛙、鳶に睨まれた油揚げと化した二人組のうち、片方が沈黙を破った。

 「今回の件、所長の興味を惹く類ではありませんでしたから」

たった一言。何ということもない調子で放られた言葉が、西部劇の決闘シーンもかくやというほどに張り詰めていた空気を叩き潰した。天上の雅楽だと言われても頷いてしまいそうなほどの声色が、聞く者の脳を殴りつける。女性にしてはやや低く、男性にしてはやや高い。甘やかにして清涼な、ただ『美しい』という形容だけを受け付ける声。

 その主――――上留かみどめ美琴みことが、穏やかに微笑んだ。

それを一目見るためだけに、破滅を選ぶ者がいてもおかしくないほどの微笑だ。ナルキッソスが見惚れ、楊貴妃が逃げ出し、三人の女神が揃って黄金の果実を差し出すほどの美。常人であれば脳を揺らされて正常な判断力を喪失してもおかしくない。男性的な少女なのか、女性的な少年なのかという区別すら溶け落ちていく美貌。

 「だとしても、我々が払っている安くない金額に見合う働きをする責務があるはずだ。個人の好悪だけでそれすら蔑ろにされてはたまらない」

室内の支配権を一瞬で奪取した衝撃を一蹴し、綾子は厳しい言葉を突きつける。

 彼女は異能を取り締まる人間だ。壮絶なまでの『美』という概念による固定的な精神干渉が彼女に与えうる影響など、顔の周りを飛ぶ羽虫に等しい。

「もちろん、そこは僕が保証しますよ」

その糾弾も、美琴は涼しい顔で受け流す。

 その隣で可哀そうなほど申し訳なさそうに縮こまっていた女性――芳賀沼はがぬま伊乃里いのりが、そこでようやく顔を上げた。

 隣にいるのが日本武尊も色褪せるほどの少年故に目立たないが、それでも美人と呼んで差し支えない容貌の女だ。艶やかな黒髪を長く伸ばし、先端付近でひとまとめにしている。

「お話は全て私と美琴君でお聞きし、所長に報告します。後日所長の方から電話で見解を報告することになるでしょう」

努めて平静な顔で言い切った伊乃里は、呆れ果てたのか黙り込んだ綾子と目を合わせないように視線を泳がす。

 数拍の沈黙を経て、綾子は溜息と共に合図を出した。

 即座に運ばれてきたのはお茶でも茶菓子でもなく書類。縮小された写真と、その横の簡潔なメモで構成されたコピー用紙がホチキスで留められているだけの簡素な冊子だ。

「本件の捜査資料だ。この部屋から持ち出すことは許さん。メモ程度なら大目に見るが、写真撮影やコピーなどの複製も許可できない」

綾子の話を聞いているのかいないのか、美琴は修学旅行のしおりをめくる児童のように冊子をペラペラ読み進めている。表紙を一瞥しただけで綾子へと視線を戻した伊乃里だけが、綾子の導火線を押し留めていた。

 再び綾子が手だけで合図を飛ばす。

「詳細は私の方からご説明しましょう」

と、横柄な亭主のような動作を特に意に介した様子もなく、執事のように慇懃に、アナウンサーのように流暢に、黒縁眼鏡をかけた男――朝霞あさか祐一郎ゆういちろうが話し手の座を継ぐ。そして、資料片手にスラスラと話し出した。

「本件は、いわゆる連続恐喝事件です。数人でターゲットを取り囲み、恐喝して金銭を奪うという、典型的なカツアゲの手口ですね。事件は同一犯であると確認されているものが二件。疑いのあるものも含めれば五件、この手の犯罪は被害者が泣き寝入りすることも多いですから、それも考慮すれば十件程度は行われていると推測されます。目撃者や捜査員から『二メートル以上跳躍した』『歩道橋から飛び降りた後すごい速度で走り去った』などの証言があがったため、こちらにも情報が回ってきていたのですが」

そこまで喋り切り、祐一郎は一呼吸挟む。

 その隙を、圧のあるアルトが埋めた。綾子である。

「件数こそ多いが、やっていることはほとんど児戯だ。所轄で十分対応できるレベルであり、そもそも捜査五課我々の出る幕ではない。犯行グループの目星も付き始めていた」

知っての通り、と彼女は無表情で続ける。それははるか天空から獲物を探す猛禽のようである。

「例え異能が絡む犯罪であっても、秩序を脅かさない程度であれば我々は介入しない。今回の件もその予定だった」

「何か事情が?」

と、問いを挟んだのは伊乃里。先ほどまでの縮こまりようはどこへやら、背筋がしゃんと伸びている。容姿と相まって、お茶を運ぶからくり人形のようだ。

「パトロール中だった警官が二名、被疑者の追跡中に殴られ重傷を負いました。医師の見解では、握りこぶし大のもので殴られた形跡が見られるとのこと」

立て板に水を流すような調子とは裏腹に、祐一郎の言葉はどこか迂遠な言い回しだ。それに気がついたからこそ、伊乃里は日本人形のような美貌に怪訝そうな表情を浮かべた。

 一方、漫画でも読むかのように資料をめくっている美琴は、そもそも祐一郎の話を聞いているかどうか怪しくも見える。もっとも、彼にとってはこの程度の状況説明など無用なものであることを鑑みれば、仕方のないことではあるのかもしれないが。

 祐一郎の方もそれは理解している。故に特別言及することもなく、感情の読めない微笑のまま黒縁眼鏡を押し上げる。

「問題は負傷の程度です。具体的な内容は資料に書いた通りですので割愛しますが、素手の殴打でこれほど傷を負わせるのは、プロのボクサーでも困難です。にも関わらず、素手以外の道具を使った形跡がない。防犯カメラの映像でも、道具の使用は認められませんでした」

不鮮明なのであまり信用できませんが、と最後にいたずらっぽく付け足して、祐一郎はその口を閉じた。黒縁眼鏡の向こう、黒曜石の如き双眸がするりと動き、己の上司へと発言権を譲る。

 「石やナックルダスター等の可能性は既に否定されている。殴った回数も一、二発程度だ」

視線を受け取った上司たる綾子はと言えば、念を押すようにそう突きつけてから、伊乃里と真っすぐに視線を合わせた。

「だというのに、他人に重篤な外傷を負わせる異常な力。これが今回、我々にお鉢が回ってきた理由だ。こちらは単純な身体能力への強化だろうと見ているが、見落としの可能性は捨てきれない。だが丹念に調査をする時間はない。この手の能力は時間を与えれば与えるほど隠蔽が困難になる傾向にあるからだ」

挑むように、煽るように、彼女は伊乃里を見つめる。

「そこで、『剥がし屋』としての見解を聞いておきたい」

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