CHAPTER2  2018年3月22日午後11時56分

 我が物顔で床に座っている女を盗み見て、男はそっと頭を抱えた。

 どうしてこうなった、という問いに意味はない。名前も知らない女を自宅まで連れてきたのは紛れもなく男自身なのだから。

 公園での押し問答も、道中の論争も、全て男は憶えている。その上でなお、呟かずにはいられないのである。

 ――――どうしてこうなった、と。

 無意味な問いを前にした男にとって、見慣れたワンルームは牢獄にも等しい。スーツを脱ぐという当たり前の行為すら忘却の彼方に投げ捨てて、男はただ座布団の上でまんじりともせずにいた。

 どの程度そうしていたのか。男は無意味な思索を切り上げて、努めて穏やかに口火を切った。

「まずはお名前を聞いても?」

神田かんだあやめ

「神田さんですか」

「菖でいい。テメェは?」

朝霞あさか祐一郎ゆういちろうと申します」

つっけんどんな対応にも、男――朝霞祐一郎は眉一つ動かさない。まるでそう造られた彫像のように微笑んだまま、滑らかに舌を動かすのだ。

「菖さんは、あの公園で何をしていたのですか?」

「テメェには関係ねぇ」

女――神田菖の返答はにべもない。生乾きの髪から覗く瞳には、先ほどと変わらぬ拒絶が満ちている。

 もっとも、その程度の敵意など祐一郎にとっては風呂場の熱気程度のものだったが。

 洒落っ気のない黒縁眼鏡の奥で、祐一郎の黒々とした瞳が菖をじっと見下ろしている。

 その視線を真正面から受け止めて、菖はサイズの全く合っていないスウェットに包まれた胸を張った。

「そう心配しなくても、テメェに損はさせねぇよ。一日二日泊めてもらえりゃそれでいい。言いふらしたりもしねぇ」

 祐一郎の脳が、砂袋に殴られて揺れた。それは彼女が己の感情を言い当てたことに対する驚愕であり、ささやかな自負への落胆である。

 なぜなら、彼には感情を表に出した自覚など塵ほどもなかったのだから。

 事実、彼の表情にも、声音にも、一欠けらの揺るぎはなかった。初めて公園で声をかけたときと鏡合わせのように同じ言動を、彼は繰り返していた。否、繰り返していたはずだった。

 喉まで出かかった『何故』をすんでのところで堰き止めて、彼は表情筋の制御に全神経を集中させた。

「……そうは言いましても」

「うだうだとめんどくせぇ。迷惑ならそう言えよ」

あくまで温和に言葉を選ぶ祐一郎の努力を、積み木を薙ぎ倒す赤子のように無に帰して、菖は乱雑に言い放つ。

 煉瓦色をした髪を掻き上げて、彼女は心底つまらなさそうに祐一郎を睨む。

「泊まっていいなら助かる。迷惑なら出ていく。簡単な話だろうが。どうでもいいことをベラベラ喋ってんじゃねぇよ」

先ほどよりも一段低くなった声で唸る。瞬き一つせず祐一郎を凝視する瞳と相まって、机に身を乗り出すその姿は獲物へと鎌首をもたげる蛇によく似ていた。

「……言いたいことは分かりました」

と、祐一郎は囁くように呟いた。

 家賃の安さに比例して断熱性のない室内の気温をさらに下げるような、熱のない呟きが滴り落ちる。

「あなたを馬鹿にしたかったわけではありません。ですが、得体のしれない女性に好き勝手させられるほど、大らかな性質でもないものでして」

それまでよりもワントーン低く、彼はどこか芝居がかった調子で嘯く。だがそれまでに垂れ流してきた台詞よりも、人間味のある言葉だった。

 それを理解してか、菖もまた鋭い顔立ちを歪めるようにして笑った。

「そりゃそうだ」

そうして独り言つ。次いで、彼女は天気の話題でもするかのような気安さで言い放った。

「んじゃ、ガムテでぐるぐる巻きにすりゃいい。そのまま風呂場にでも押し込んで入り口塞げば、変なことはできねぇだろ。それで明日の朝、解いて外に放り出してくれればいい。アタシは一晩越せるし、テメェは安心だ」

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