CHAPTER11 2018年4月28日午前10時2分
小さな歩幅でゆっくりと歩く老人たちの後ろからバスを降りた伊乃里の視界に、白亜の建物が映りこむ。同様に、その入り口に佇む見知った長身も。
「お呼び立てして申し訳ありません」
申し訳なさそうな様子など爪の先ほども見せず、スーツ姿の男――
温い強風が二人の髪を巻き上げ、服の裾をめくり、声を奪い去っていく。堪らず自動ドアをくぐった二人は、どこか消毒薬のような香りに包まれて、改めて会話を再開したのだった。
「先ほど電話でご説明した通り、今回力をお貸し頂きたいのは、重傷を負っていた犯行グループのメンバーたちの事情聴取です」
まるでコールセンターの音声案内のように、彼は歩きながら朗々と話し続ける。その様はどこか機械的で、非人間的だった。
「負傷した六名全員の意識が回復し、医師から許可が下りました。できるだけ早急に情報を引き出すため、ご協力をお願いします」
「分かっています」
と、伊乃里は静かに答える。清廉な美貌の中で唇だけが真一文字に引き結ばれていた。
「最優先で聞き出して欲しいのは、彼らに怪我をさせた人間の素性です。名前や外見などに加え、行先の心当たりや人物像など、彼らが知っている限りの情報を引き出していただきたい。その上で余裕があれば、犯行の動機なども」
彼女の緊張を知ってか知らずか、祐一郎はどこまでも平静な態度を崩さない。黒縁眼鏡の向こう側に浮かぶ瞳を真っすぐ進行方向に向け、白く光を反射する廊下を滑るように歩くだけだ。
そのうちに、二人は一つの病室の前で足を止めた。
「ここが一人目の病室です。名前は
好きな食べ物でも尋ねるような調子で、彼は言い放つ。
対して、伊乃里は芸能人だと言われても納得してしまいそうな微笑みを浮かべて首を横に振る。
「いえ、大丈夫です」
そして言うが早いか、病室の扉を引き開けた。
中にいたのは、派手な見た目の男だった。ベッドの上で上半身を起こし、退屈そうに漫画雑誌を見ている。治療の痕がそこかしこから覗いているが、侵入者へ向けられた視線には熱したフライパンを思わせる敵意が浮かんでいた。
「誰だよ、テメェら」
「県警捜査五課の朝霞祐一郎と申します。少々お尋ねしたいことがありますので、二、三質問してもよろしいですね?」
先陣を切ったのは祐一郎だ。精巧に作られた人形のように、彼は無感情に言葉を紡ぐ。
対して、返ってきたのは舌打ち一つ。
晋平が放つ強烈な怒気が、病室の空気をひっくり返す。それは夏の暑さのような敵意であり、同時に締め付けるような恐怖だった。
「こんにちは」
それを、たった一言が粉々に引き裂く。敵意に満ちたサウナのような空間が、揺らぎ、崩れ、掌握される。
それは天使の歌のように清らかで、悪魔の誘惑のように甘美な調べ。言葉よりも率直に、音楽よりも迂遠に、人間の脳を直接揺らす異質な音。伊乃里の言葉は麻薬のように、劇毒のように、他者の頭脳を麻痺させるのだ。
「いくつか質問をしますので、正直に答えてくださいね」
彼女が持つ異能は、他者の心を掌握する力だった。
晋平の眼から魂が抜けたことを確認し、伊乃里は質問を始める。
怪しく。
「あなたに怪我を負わせた人物の名前を教えてください」
「
妖しく。
「あなたが襲われたときの様子を、詳しく教えてください」
「アイツがサツを殴っちまったから、揉めて喧嘩になった。最初はリンチだったけど、途中でアイツがキレた」
奇しく。
「彼女とはどのような関係ですか?」
「ダチの後輩。家出したとかで、そいつが一緒に住んでた」
空間に彼女の声が沈殿していく。
「ダチとはどなたのことですか?」
「
「長沼菖さんは、どのような人物でしたか?」
「知らない」
「知っている範囲でいいので、あなたの印象を教えてください」
「普通。こっちの言うことは割と聞く。真面目っぽい。ただ、キレるとやべー」
「その方が映っている写真などはありますか?」
「全部スマホに入ってた。確かアイツが持って行ったって聞いた」
「では、その方の外見を分かる範囲で教えてください」
「女にしては背が高ぇ。でも胸はなかったな。あと髪が赤い」
彼女は言葉を紡ぎ、その度に晋平は一切の躊躇も欺瞞もなく、全てを口から垂れ流す。彼の尊厳も、決意も、自我さえも、そこには介在しない。今この瞬間、彼は伊乃里の声に脳を支配された人形だった。
「ありがとうございました」
全ての質問を終え、伊乃里は会釈する。それが晋平の記憶に一切残らないことを理解していてなお、彼女はそうするのだった。
伊乃里が少しばかり疲れた顔つきで六人目の病室を出たとき、既に窓の外では太陽がビルの向こうに消えかけていた。
「お疲れさまでした」
と、傍らの祐一郎は素知らぬ顔で嘯く。彼自身も伊乃里の異能に少なからず影響されていたはずだが、そういった様子は窺えない。もっとも、彼の外見から何かを窺い知ることができた人間はほとんどいないのだが。
「いえ。これくらいなら大丈夫です。それより、必要な情報は集まりましたか?」
消毒薬の臭いがする空気の中を出口へ向かいながら、伊乃里はそう訊ねる。
「ええ。十分すぎるほどです。我々だけでは名前を聞き出すことも一苦労でしたでしょうし、半日でこれだけの情報が得られたことは十分な収穫でした。本当に、ありがとうございました」
祐一郎のよく磨かれた鏡のように凹凸のない態度を前にして、それが世辞かどうかを伊乃里が判断することはできない。故にただ、当たり障りのない返答を返すだけだ。
「お役に立てて、よかったです」
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