CHAPTER15 2018年5月12日午前3時41分

 神田かんだあやめが目を覚ましたとき、世界はまだ闇の中だった。

 瞼を閉じていても開けていても変わらない景色の中で、彼女は静かに息を吐く。

 太陽を失った闇は、彼女にとってひどく冷たい。己に覆い被さるような天井を見据え、菖はただそこでまんじりともせず不安を幻視していた。

 彼女が寝ているのがロフトの上であり、梯子側に朝霞あさか祐一郎ゆういちろうが寝ていることを考えれば、動けないといった方が正しいのであるが。

 「……どうかしましたか?」

だが、眠りの浅い性質であるらしい祐一郎は、微かな気配の揺らぎにも反応したようだった。

 ぼそぼそと、普段の滑らかな話し口が嘘のように滴り落ちた言葉を耳にして、菖は喉の奥で笑う。それは間抜けな弟を笑う姉のような、温かで穏やかな笑い。けれど同時に、愚かな道化を笑う観客のような笑いでもあった。

「ちょっと目が覚めただけだよ。何でもねぇ」

そうやって笑って見せる己が――――笑えてしまう己が、あまりにもおかしくて、菖は笑っていた。

 何でもないなんて嘘を、まるで嘘ではないかのように笑ってつける自分が、あまりに滑稽で。

 悪い夢を見たんだと信じようとする自分が、あまりに図々しくて。

 菖は笑っていた。

 祐一郎は何も言わず、ただ至近距離から黒真珠のような双眸で菖を覗き込んでいる。その視線に何もかも見透かされているような気がして、彼女はもぞもぞとその目に背を向けた。

「……悪い夢でも見ましたか?」

彼は、少しだけ本調子を取り戻したらしい口ぶりでそう問う。金属を金属で叩いたような感情の読みにくい言葉ではあるが、本心から心配しているのだと、菖には分かった。

 だから、というのは責任転嫁だろう。それでも、その優しさの前に、彼女の自尊心も、忍耐心も、崩れ落ちてしまったのだった。

「そうだな」

と、呟く声は掠れている。

「そんなようなもんだよ」

嘘だった。

 菖の体には、昨日の傷が残っている。疲労も残っている。人を殴る感触も、骨を砕く感覚も、殴られた痛みも残っている。胸の中心に広がる焦燥にも似た衝動も――――拾い上げた財布にいくら入っていたかも、彼女の記憶には残っていた。まるで、決して夢ではないと己自身に刻み込むように。甘美に薫る逃げ道を塞ぐように。

 それは夢というには明確で、記憶というには曖昧な過去。己が己ではなくなった記録。ひどく不確かで、けれど己の行いだということだけはいやに明確な記憶だった。

 「……大丈夫ですよ」

と、彼は言う。

 何もわからないくせに、と彼女は胸中で跳ね除ける。それは精一杯の理性。無知ゆえの善意に飲まれないための虚勢だ。

 それすら見透かしたように、彼の囁きが背後から彼女の耳朶を打つ。それは冬の日のマフラー、あるいは獲物を捕らえる蛇。そして彼女を捕らえて離さない、絞首台の縄だ。

「私は警官ですから、大抵のことから守れます」

「ああ、そうだったな」

と静かに答えて、菖は静かに目を伏せた。気配を探りながら背後へすり寄り、布越しの微かな体温に身を委ねる。

 だからダメなのだ、という一言を飲み込んだまま。

 それでも離れられない、己の弱さを嗤いながら。

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