CHAPTER13 2018年5月9日午後10時4分
煌びやかに灯りの灯る街並みを見下ろす位置に、女は立っていた。すらりとした長身をジャージで包み、太陽の恩恵を失った風の中で、夜の闇と同じ色のポニーテールをなびかせている。芸能人だと言っても信用されそうな端麗な顔に薄笑いを浮かべて、彼女は周囲に目を光らせている。
彼女の名は
その彼女が、何故深夜にビルの屋上に立っているのかと言えば、彼女の養母にして雇い主でもある芳賀沼
曰く、『警察の手伝いで、ビルの屋上をパトロールして犯人を捜せ』と。たった一人で神出鬼没の犯人を見つけろとは酷な話だと抗議した戻であったが、智音はあの琥珀色の瞳に面白がるような光を湛えて、犯人が犯行を行っている横崎市内の特定エリアの地図を手渡してきたのだった。
結果、彼女は深夜、ビルからビルへと飛び移ることになっているのである。
夜の闇を引き裂いて、彼女は跳躍する。
その耳に、直接金属質な男声が流れ込んだ。
〈戻さん、聞こえていますね?〉
「ああ。気色悪い声がしっかりな」
〈手厳しいですね。今のところ異常は見当たりませんので、引き続き警戒を――――出ました!〉
感情のない声に、一瞬だけ色が乗る。その刹那、戻はビルの端から端まで助走をつけながら、イヤホンマイクの向こう側に怒鳴る。
「どこだ!」
〈正面やや左、五つ向こうの雑居ビルの陰です〉
その音が脳に到達した瞬間、戻は飛んでいた。打ち出された弾丸のように。
夜の冷たい空気が後ろへと飛び去っていく。後頭部で束ねられた髪が、服の裾が、手負いの獣の如く暴れてもお構いなしだ。
隣のビルの屋上に足が着いた瞬間から、彼女は加速する。疾風の如く屋上を駆け抜け、さらに向こうのビルへ。
「こっちだよな!?」
〈ええ。真正面――――屋上に出ます、注意を〉
その言葉通り、戻の視界に飛び込んだ人影があった。長身を覆い隠すような黒い雨合羽を翻し、人影は夜空へと跳躍する。
その体に、戻の体当たりが突き刺さった。二人の体が一つに固まって、ビルの屋上を転がる。
二転三転する視界の中、人影の体を掴もうとした戻の腹に、今度は人影の膝が突き刺さる。思わず力の緩んだ肢体を、人影は容赦なく放り投げる。
「クソッ、いってぇな!」
屋上をゴロゴロと転がり、髪まで砂だらけになった戻は、けれど即座に悪態と共に立ち上がった。
違和感はある。例えば、どれだけ近づいても窺い知れないフードの奥の暗闇。
自己暗示により超人的なまでに引き上げられた戻の身体能力をもってしても、押さえきれないほどの膂力。
だが、今それに気を取られれば、一瞬で意識を丸ごと持っていかれると本能が理解していた。
互いに一撃を食らった状態で睨み合う。夜の闇に浮かぶビルの屋上はさながらリングのようだが、二人にルールの縛りはない。そこはスポーツの場ではなく、戦場であった。
先に動いたのは、戻。
定規で引かれた線よりも真っすぐに、彼女は突進する。屋上のアスファルトを蹴立て、正面に立つ雨合羽の人物へと。殺意とすら見紛うような闘志が尾を引き、彼女のタックルが雨合羽の人物を捉える――――寸前、雨合羽が翻った。
それはまるで闘牛士のように、雨合羽の人物は軽やかに身をかわし、体当たりをいなす。そして稲妻のように右手を閃かせ、急制動をかける戻の顔を殴りつけた。
「うおわ!」
すんでのところでそれを避け、戻は体勢を立て直す。続けて飛来する二撃、三撃をやり過ごし、闇を穿つような反撃。だが雨合羽に阻まれ、相手の体を捉えられない。
拳と蹴りの驟雨。互いに互いへ向けられた必殺を受け流し、一撃を狙う強烈な敵意の奔流が屋上をずぶ濡れにする。
勝敗を分けるに足る決定打が出ないまま、数瞬。
雨合羽が大げさなまでに翻り、その後ろから爪先が現れた。
薄汚れた運動靴の爪先が、三日月のように弧を描いて戻の側頭部を狙う。まるで刃のように、絶対の死を孕んで冷気を裂くそれを間一髪で躱し、戻は己の勝利を確信して笑う。
だが、必殺に足るだけの力を込めて拳を構えた戻の視界には、踵。
脳が危険を前に処理能力を上げ、戻の世界がスローモーションになる。ゆっくりと、けれど確実に己の意識を刈り取るためにやってくる死神の軌道に右手を割り込ませたところで、彼女の頭蓋は津波のような衝撃に揉まれて揺れた。
戻の口から微かな悲鳴が漏れる。コンクリートの上を滑るように吹き飛ばされ、けれど彼女は必死に意志力を振り絞る。
だが、既に雨合羽は夜の闇に溶けてなくなっていた。
「ああ、クソッ!」
〈残念でしたね〉
大声で悔しさを露わにする戻。だが対照的に、通信の向こう側は無感情だ。
「アイツはどこ行った!」
〈ダメです。消えてしまいました〉
「なんだよ。役に立たねぇじゃねぇか」
〈返す言葉もありません〉
小指の先ほどの痛痒も感じていなさそうな声には舌打ちで返し、戻はコンクリートに身体を投げ出した。そうして、重い体がコンクリートに吞み込まれていくような錯覚の中で、冷たい風で紙飛行機を飛ばすように、意識を放り棄てたのだった。
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