CHAPTER10 2018年9月22日午後8時49分

 耳鳴りがするほどの静寂だけが、事務所の中に満ちていた。

 一仕事終えた疲労の全てを背もたれに任せて、芳賀はがぬま智音ともねは天井を見上げている。慌ただしく飛び出していった二人は既に、車にすら匹敵する速度で去っていった。今頃は裏路地の暗闇を裂いて、目的地へとひた走っているだろう。

 後は野となれ山となれとばかりに怠惰を貪っていた彼女の聴覚が、微かな足音を捉えた。

 トントントン、とリズミカルに近づいてくるそれは少しずつ大きくなり、次いで扉を開ける音へと姿を変える。

 開いた扉の向こう側には、美しさを捏ねて固めたかの如き少年。

 黒曜石のように蛍光灯の光を吸収するセミロングを艶やかに揺らして、少年は智音へと目を向ける。男装の麗人すら霞んで見える美貌が、真っすぐに智音へと向けられた。

 とはいえ彼女もプロフェッショナルである。ただの概念による固定的な精神干渉など、微笑み一つで一蹴してみせた。

 「こんな時間におでかけかい?」

「うん」

と、少年――上留かみどめことは表情を緩める。それを目にするためなら破産すら厭わない者がいてもおかしくない微笑みだ。

 アフロディーテも嫉妬に狂うだろう美貌を持つ少年は、それ以上何を言うでもなく、あまりにも似つかわしくない簡素な事務所を横切り、さっさと正面の扉へと進んでいく。

 その華奢だがしなやかな背に、智音は投げかけた。

「……二人は外したのかい」

 少年は足を止め、その一本一本が最高級の絹糸にも負けない髪をふわりと広げて振り返った。

 その顔には、既に微笑みはない。どこか寂し気で、同時に悟ったような表情が広がるばかり。それは幼さの残る少年が浮かべるものにしては、ひどく人間味が薄かった。

「候補は間違ってなかったんだけどね」

それだけ言い残し、彼は事務所を後にした。

 道路に出るまでは三歩。しかし、一歩目で風景は変転する。

 寂れた道路はコンクリートに、対面のシャッターは錆びたフェンスに。

 そこはビルの屋上だった。

 雲の切れ間から月が顔を出し、束の間、暗闇が褪せる。

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