4 躯を負って/道標


 多分、一目惚れだったのだろう。もう一生叶う事のない横恋慕。その感慨すらも、泡沫であやふやだ。


 何もかもが、始まる前に終わってしまったような、そんな気分だ。何もかも。


 命を救ってもらった。感謝の言葉は伝えられていない。

 嘘を吐いた。逃げたのではないと。その嘘を謝る事はもうできない。

 拗ねたような彼女に、手を振り返すことも、もう出来ない。

 悼もうにも、墓標に掘る名前すら、知らない。


 ……出会いから別れまで、すべてがただの夢だったようだ。


 けれど、―――託されたモノが、一鉄の手にはあった。おとうと、かたみ、と、そう言っていた。渡してくれと、そう言われたのだと、一鉄は思った。


 そして、もう二度と目覚めることのない彼女の躯もまた、確かにそこにあってしまう。

 だから………。


 *


 ――スコープの先で、果実が弾けた。気色悪い生命体の――よだれをまき散らし牙を剥き出しこちらへと駆けてくる異形の、その、単眼が、弾け飛ぶ。


 血が脳漿が、昼であれ薄暗い木陰を汚し、首を失った竜が倒れ――その死体を踏み抜いて、背後からもう一匹の竜が見えた瞬間にもう殺している。


 汚い果実が二つ、重なり合って崩れ落ちる。

 膝を折り、折った膝の上に左腕を置き、それをストックの代わりに銃身を安定させ――。


 そんな狙撃姿勢を取った“夜汰鴉”――一鉄は、早くも癖になりつつある警戒心で、視界の端のレーダーを眺める。


 敵は、周囲にいない。味方の反応も、無い。それを確認した上で、それから一鉄は、耳を澄ます。


 種はわからないが、あの―――昆虫めいた色合いの酷く気色悪いトカゲは、あの子を殺した奴は、光学的にも、あるいはレーダー上でも、姿を消していた。こちらが気を抜いた瞬間を狙うような、そんな行動をしていた。


 だから、敵がいないことを確認した上で、その上で更に耳を澄ます。そこまでが、もう癖になっている。


 まだ、臆病なのだろうか。

 あるいは、どうあっても見つけ出して、仇を討とうと考えているのか。


 どちらか、一鉄にも判らない。あれから動きっぱなしで、何度か昼夜が変わった。もう、まともな思考自体がおぼろげになり始めている。


 朧げなままに、一鉄は動き続けている。

 オニの国に行こう。託された形見を渡そう。そして、……彼女がゆっくり眠れる、その場所へ連れて行こう。


 半ば混濁したように、だが責任か恋慕かあるいは訓練の賜物か、目的を忘れることはなく、一鉄は漸く、立ち上がる。


 そして、もう動かない彼女の躯を、優しく寝かせていたそれを、さっきまでそうしていたように、抱き上げ、半ば意識がないままに、再び歩み出した――。


 *


 ヒトと他の種族との戦争が、この世界ではあった。

 この大和でも、大和帝国と多種族同盟連合軍、ヒトとオニとの戦争があった。

 竜――共通の敵が現れても休戦状態のまま。真っ当に手を組むことはなかった。


 それが、漸く、変わりつつある。それが、いわゆる社会情勢だ。

 その社会情勢の延長線上に、この、戦場がある。


 手を組むと決めてもすぐにはそうとならず、根深い対立の結果合流すら出来ずに、竜に襲われた人類軍。


 合流地点へ向かう途上で、帝国軍ヒトは竜の襲撃にあった。

 合流地点で待っている間に、連合軍オニは竜の襲撃を受けた。


 双方の脳裏に、疑惑も浮かぶ。……相手方に嵌められたのではないか、と。


 けれど、一鉄はそこまで考えていなかった。何も考えず、ただ、亡骸を届けようとでもするように、オニの国へと、ただ歩んでいた。


 だから、それはある意味必然だったのかもしれない。

 ただオニの国に行こうとした、兵士に成りたての若者を先に見つけたのは、オニの方だった。オニはオニで、分断されてしまった自軍を集結させるために、方々に斥候を出していたのだ。


 そして、その斥候は、見つけた。

 気絶したのか、立ったまま、立ち尽くして、身動きを取らない、真っ赤に染まった鎧を。


 どう考えても拙すぎる、ただ傷を隠しただけのような応急処置を受けたオニの少女を抱える、帝国軍の兵士を。


 ヒトとオニとの間には、ずっと、戦争があった。手を組もうと言ってきているだけの敵。ヒトの事を、内心そう考えているオニも、少なくはないだろう。


 けれど、その光景は、余計な考えを見る者に捨てさせるには、十分なほど、悲惨で悲痛だった。


 *


 一鉄は、目まぐるしく夢の中にいた。


 悪夢を女神が打ち払い。

 女神を悪夢が奪い去った。


 何もかもが遠い泡沫の夢。その夢の後は、やはり夢のように朧げにしか思い出せない。


 ただ、歩いた。眠ったままの女神を抱えたまま。ただ、歩いた。ただ、歩いて………。


 いつの間にか、自分は眠っていたらしい。目が覚めて初めて、一鉄はそのことに気付いた。


 目を開いたその瞬間に、まず視線を端に寄せる。レーダーマップがあるはずの場所、だ。けれど、そこにレーダーの表示はない。どころか、FPAのディスプレイもない。肉眼だ。どうやら、“夜汰鴉”を脱いでいるらしい。


 そう理解して漸く――一鉄はその場所がどこか、に思考を移す。

 テントだ。狭いテント。帝国軍のテント。見覚えのある野営用の設備の中。ただ眠る為だけの場所で、当然ながら周囲には何もない。


 いや、一つだけ、物があった。一鉄の枕元に、置かれている。

 短刀だ。見覚えのある――忘れられるはずのない、あの子の形見。一鉄は身を起こし、その短刀に手を伸ばし、握りしめ………ただ、座り込んだまま、それを眺めていた。


 と、どのくらいそうしていたのか。不意に、テントの一角が開き、そこから、思慮深そうな瞳が、中を覗き込み……やがて、その人物はテントの中に踏み込んできた。


「よう。……お目覚めかい?」


 オニの女、だ。つややかな長髪に、二本刺しの美人。妙に派手な色の羽織を身に纏っている。


 一鉄は、ゆっくりと、そのオニの女に視線を向け、挨拶も何も抜きに、ただ、問いかけた。


「あの子は?」

「…………感謝するよ。くにに帰そうとしてくれたんだろ?連れてきてくれて……良かった」

「…………」


 一縷の希望を抱く隙も無い。もう、わかっている事だ。ただ、亡骸を連れて来ただけだと言う事は。

 目を伏せ、一鉄は手にある短刀に視線を落とす。

 と、途端、オニの女が鋭く声を上げる。


「後追いは止めなよ。あの子は、そう言うの喜ぶ子じゃない」


 その声の後に、ふと、一鉄は笑い声を聞いた。かすれたような笑い声を。

 何所から届いた声か、一鉄は遅れて気付く。笑っていたのは、一鉄自身だ。


 驚いたように――同時に警戒するように、オニの女が視線を鋭くする。それを横目に、一鉄は乾いた笑い声をあげるまま………呟いた。


「……そこまで深く知っている訳ではありません。自分が追った所で、彼女は、迷惑がるだけでしょう」


 そう、自分を笑って……それから一鉄は、オニの女に、手に持った小刀を差し出した。


「なんだい?」

「弟と。形見、と、あの子は言っていました。……届けて頂きたい」

「弟………」


 何所かいぶかしむように、オニの女は眉を顰め……暫し、考えを巡らすように視線を逸らすと、それから、一鉄へと問いかけてくる。


「……そいつをあたしに託して、その後、あんたはどうするんだい?」

「自分は、罪人です。竜を前に、敵前逃亡を犯した、腰抜けの臆病者です。帝国軍に出頭し、罰を受けます」

「……重罪だよ?どうなるかわかって言ってんのかい?」


 一鉄は、頷いた。オニの女は、そんな一鉄を眺め……やがて、どこか呆れたように、頭を掻いた。


「逃げた、ねぇ……。ホント、そう言うのに縁があるね、まったく。あんた、名前は?」

「月宮一鉄です」

「そうかい、一鉄。じゃあねぇ………」


 そう、女が言った直後、だ。

 衝撃が、一鉄の頭を襲った。一鉄は派手に、床に倒れ込み……一瞬遅れて、気付く。


 蹴られたらしい。オニの力で思い切り蹴られれば、頭なんてそのまま吹き飛ぶだろう。そうはなっていないから、手加減はしてくれたのだろうが………くらくらと、脳を揺さぶるには十分な衝撃だった。


 揺れる頭を振って、どこか呆然と、一鉄はオニの女を見上げる。

 オニの女は、そんな一鉄を見下ろしながら、言った。


「……甘ったれてんじゃないよ。弟とか形見とか、あの子に聞いたんだろ?だったら、それはあんたが託されたモンだ。他人に渡すんじゃない。あんたが自分で届けな」

「ですが………」

「あんたが託されたんだ。そうだろ?違うかい?そこからも逃げんのかい?」


 尚――有無を言わさぬ調子で、オニの女は言う。

 その声を、視線を前に、一鉄はまた、手元の短刀へと視線を落とした。


 一鉄が、託された。その託されたモノから、逃げようとしている………。

 一鉄は、何も言わなかった。ただ、手にある短刀を、強く、……強く握りしめる。


「………それに、悪いけど、こっちとしても使えそうな奴泳がしとく余裕はないんだ。まだこの近くにトカゲはわんさか居るからね。強制する気はないよ。逃げたいなら逃げて、死にたいなら野垂れ死にな。そうじゃないなら、……あたしは帝国軍のクソガキを歓迎するよ」


 そう言って、オニの女は一鉄に背を向け、テントを後にしようとする。

 それを見上げて、……一鉄は、声を投げた。


「……あの、」

「なんだい?」

「……彼女の、この小刀を持っていたあの子の、名前を、教えて貰えませんか。名前も、聞けてなくて……教えてください。俺が誰に会って、誰に助けられて、誰に託されたのか……」


 そう言った一鉄へ、オニの女は振り返り、言った。


「鈴音だよ。……綺麗な声してたろ?」


 寂しさを隠すような、そんな微笑みを浮かべ、それだけ言って、オニの女はテントを後にしていった。


 一鉄はそれを見送り、一人になったテントの中で、呟いた。


「鈴音さん……と、言うのですか……」


 見下ろした先の短刀。そこに、雨のような、雫が垂れた………。

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