☖『両取り逃げるべからず』

「こんちはー、双葉ちゃん! 先輩も!」


 待ち合わせ場所の千駄ヶ谷駅改札前で真菜が朗らかな声を上げる。

 約束の時間まではまだ少し早いが、真菜の方が先に到着していた。


 やっぱり綺麗な人だ。あらためて双葉はそう思った。

 ワインレッドのブラウスと、サーモンピンクのフレアスカートが秋空に映えている。 

 ルビーみたいに赤く光るアンダーリムの眼鏡も知的で大人っぽい。

 あと何年か経てば、自分もこんな大人になれるのだろうか。


「悪いな、南條。二日連続で付き合わせて」


「とんでもないっす。どうせ家にいても将棋してるだけなんで、誘ってくれてありがとうですよ」


「ありがとうございます。せっかく東京に来たので見ておきたくって」


「うんうん、わかるよー。私達にとっては聖地みたいなものだもんね」


 これから向かうのは千駄ヶ谷駅から徒歩数分のところにある東京・将棋会館だ。

 プロの棋士たちが日夜、しのぎを削っている憧れの場所。テレビやネットの報道では建物が映されることも多く、一度は訪れたいと思っていた。


 ただ、最初は真菜を誘うつもりはなかった。

 悟と二人で出かけたい。真菜のことをもっと知りたい。

 昨日の対局を経て、ほんの少しだけ後者の方が大きくなった。 


「あ、ほらほら見えてきたよ」


 双葉と並んで歩いている真菜が指をさした。


「あ、これ……この直方体の石、マンガに出てたやつ!? ちゃんと将棋会館って書いてる!」


「でしょ。来たーって感じするよね」


 “将棋会館”と書かれた石造りの大きな門札が道路に面した入口に置かれている。

 それを見た双葉のテンションは否応なしに上がり、何度もスマートフォンで撮影した。

 せっかくだからと真菜が通行人に頼み、三人で集合写真まで撮ってもらった。


「ここで……プロ棋士が対局してるんですよね」


 五階建てなのでそこまで大きなビルではない。

 それでも、その存在感に圧倒されるような気がした。


「うん。ここで数々の名局が産まれたんだよ。感慨深いねえ」


 そんな真菜の言葉を受け、双葉は黙ったまま何度もうなずいた。


「一階は売店になってるんだよ。二階は道場。今日のイベントは……子供将棋教室か。残念だけど私たちは入れないね」


 ビルに入ったところに掛けられている掲示板を見て、真菜が双葉に言った。


「いいんです。とにかくここを見たかっただけなんで」


 ここの空気を感じたかった。その目的は達成された。


「なあ、せっかくだから買い物していっていいか?」


 売店の方を見ながら悟が言った。


「もちろん寄るつもりだったけど、サトルちゃん何か欲しい物あるの?」


「んー、昨日の二人の対局見てたらさ……俺も駒と盤が欲しくなって」


「おお、いいですね! ぜひ買いましょう!」


 真菜が嬉々として売店に向かう陰で、双葉も静かに拳を握りしめて喜んでいた。

 好きな人が、自分の好きなものを好きになってくれる。それがこんなにも嬉しいとは思わなかった。


 売店に入ると、将棋盤、駒、扇子、将棋に関する本などが所狭しと並んでいた。

 盤や駒はガラスケースに入っているので、当然触れることはできない。


「なんか……駒だけでも、いろんなのがあるんだな」


 圧倒された様子で悟が呟いた。


「値段もピンキリっすよー」


「だよなあ。何が違うんだ?」


「まずは材質ですね。プラスチック製のものは安くて使いやすいですけど、やっぱり駒音はいまいちです。木製のものも種類によって質感や見た目が変わってきます」


 悟の質問を受けた真菜は眼鏡を指でくいっと上げ、まるで先生のように話し始めた。

 心なしか眼鏡が光っているように見える。


「やっぱりパチンって音は出したいなあ」


「なら木製の駒ですね。ただ、盤が安物だとあんまり良い音がしないので、盤もそこそこの物を買った方がいいと思いますよ」


「なるほど」


 悟が盤のコーナーに向かったので、双葉も付いていく。

 そこに見覚えのあるパッケージを見つけた。


「サトルちゃん、私が持ってる盤はこれ。折り畳み式だけど、蝶番ちょうつがいが無いから出っ張らなくて使いやすいよ」


「あ、いいな、それ。私も欲しい」


「じゃあ盤はそれにしようかな」


 盤はすぐに決まった。

 問題はここからだ。


「さて肝心の駒ですが、同じ木製でも文字の掘り方で値段は大きく変わります。一番安いのは駒に字を直接プリントしたものですね」


 真菜がウインドウの中に並べられている箱を指さす。

 手ごろな値段の入門編としてよく見かけるシリーズだ。


「その次は、駒に字を掘ったものです」


「ああ、昨日南條が持ってきてたようなやつか」


「そうっす。まあこの辺までが初心者でも買いやすいものですね。そこからもう一段階良い物になると、堀った部分をうるしで埋めるんです。値段的にも気軽には手が出せないですねー」


「私も初めて実物を見ました」

 

 ショーウィンドウの奥で漆が綺麗に光っている。

 欲しい、というよりは憧れに近い。どんな手触りがするんだろう。


「ちなみに最高級品は漆をさらに重ねて字を盛り上げるんです。プロのタイトル戦なんかで使われるんですけど、ここまでいくと軽く二桁ふたけた万円いきます。もはや工芸品の域ですね」


「ほぇー」


 値札に書かれた金額に気付いた悟が間の抜けた声を出した。


「まあ、こういう高級品はサトルちゃんには関係ないから忘れていいよ。あと選ぶとしたら書体だね」


「うん。それ、超大事」


「書体って?」


 悟の質問を受け、双葉と真菜が顔を見合わせた。どちらが答えるか探り合っている。

 真菜が「どうぞ」と目線を向けたので、双葉がまず答えることにした。


「ほら、駒の漢字をよく見て。形がちょっと違うでしょ。書体はいくつも種類があるけど、メジャーなのは“錦旗きんき”、“菱湖りょうこ”、“水無瀬みなせ”、“源兵衛清安げんべえきよやす”、あたりかな」


「あー、たしかに微妙に違うな」


「これはもう好みだから、ピンときたのを選べばいいよ」


「双葉と南條が持ってるのはどんな書体なんだ?」


 悟なら聞くと思っていた。

 ここからは真菜とのプレゼン勝負だ。

 どうせなら自分と同じ書体の駒を買ってほしい。


「私が持ってるのは、この“錦旗”。字が太くて丸っこいから、なんかカワイイって思ってこれにした」


「私のは“菱湖”っすね。流れるような細い線が綺麗でしょ」


「なるほど。……よく見ると全然違うな。どうしよっかな」


「ちなみにね、“錦旗”は『駒作りは“錦旗”で始まり“錦旗”で終わる』って言われるくらい王道の書体だね。もし決められないなら、最初は王道から入るのも悪くないと思うけど」


「へえ」


「あ、先輩先輩、この“菱湖”はプロ棋士にも人気があって、タイトル戦では一番使われてるらしいっすよ。あとがしっかり違う形なのも細かくてポイント高いです」


「へえ」


 迷う悟を挟み、真菜と目が合った。

 ここまで来たらあとは本人に任せましょう。双葉と真菜はそんなアイコンタクトを取り、黙って見守る。

 

「うーん……。よし、決めた。俺は――」


 レジで会計をしている悟の背中を真菜と二人で見つめる。

 存分に悩み、最後に悟が選んだのは“錦旗”でも“菱湖”でもなく、“”だった。


「なんか私……そんな気がしてました」


「うん……私も」


 ゆったりとして、それでいてどっしりと落ち着いた書体。

 その佇まいは、なんとなく悟を想起させる。


「いやー買っちゃったよ。早く使いたいな」


 会計を終わらせ、悟がうずうずした顔でそんなことを言った。

 ずっと駒を見ていたせいか、自分も将棋を指したくて仕方がない。

 でもせっかく外出したのに、すぐ悟のマンションに戻るのももったいない気がする。


「双葉ちゃん、このあとの予定は?」


 どうすべきか悩む双葉に向けて真菜が言った。


「えっと、この辺でお昼ご飯を食べて、そのあとは特に……」 


「ふっふっふ。じゃあ、イイトコに連れて行ってあげよっか」


 そう言いながら、真菜がなにかを企むような笑顔を見せた。



・・・・ ・ ・・・・・・………─────────────………・・・・・・ ・ ・・・・

 


 ☖真菜の将棋格言講座☖

 

 『両取り逃げるべからず』


 両取りっていうのは、二つの駒を取れる状態のことです。

 先輩も経験ありますよね。の両方を取られそうになったこととか。そういうときは「やられた!」ってガチで凹みますよね。


 でも、そんなときは慌てずにこう考えるといいんです。

 焦って駒を逃がしたとしても、どちらか片方は確実に取られます。でも裏を返せば相手はどちらか片方しかとることはできないんです。

 なら、逃げることに手を使うのではなく、いっそどちらも逃げずに別の手を使って攻めてみよう、と考えるわけです。


 両取りは「どちらか選べ」って言われているようで、実はそうじゃないんですよね。

 いつだって第三の選択肢がある。そういう格言なんです。

 まあ先輩は自然とそういうのができてそうですけど。

 いえ、こっちの話っす。

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