☖『俗手の好手』

 あの恥ずべき敗北から二週間が経ち、あっという間に直接対局の日がやってきた。

 ここしばらくの間、対居飛車戦の特訓に明け暮れた。こんなに集中して勉強したのは高校生のころ以来だ。自信が無いと言えば嘘になる。だが、きっと双葉も同じように研究していたはず。なら条件は同じ。いざ、勝負。


 指先に力を込めて、真菜はインターホンを押した。

 そしてマイクに向け名前を告げると、バタバタと景気の良い足音とともに玄関が開いた。


 そこには美少女が立っていた。


「あれ?」


 もう一度、表札を確認する。『稗村』という苗字。

 間違いない。ここは悟の部屋だ。

 

「あの、はじめまして。富樫双葉、です。マナさん……ですよね?」

 

 突然のことに面食らい、真菜は「あ、はいそうです」としか言葉が出なかった。


 この子があの双葉ちゃん?

 いやいやいや、先輩。ちょっと待ってくださいよ。なにが「昔は可愛かったのに最近生意気になってきた」ですか。現在進行形でメチャクチャ美少女じゃないですか。


 真菜は動揺をなんとか隠し、あらためて双葉に目を向けた。

 きらきらと黒く光る大きな瞳と、切り揃えられた艶めく黒髪は、人形のような愛嬌を感じさせる。

 小さな肩はパールグレーのカットソーに包まれ、その上に羽織られた菫色すみれいろのパーカーには細いリボンが密やかにあしらわれていて可愛らしい。

 ローズピンクのスキニーパンツに納まった脚は健やかにすらっと伸びている。

 紛うことなき美少女だ。


 今日、どの程度のお洒落をしていくか少し迷ったが、それなりの服装を選んで本当に良かった。Tシャツなんかで向かいに座っていたら、それだけで気後れしていたかもしれない。


「すみません。サトルちゃん、いま仕事の電話がかかってきて手が離せないみたいで」


 見惚れていた真菜に、双葉が弁明するように謝った。


「あ、ごめんなさい! 真菜です。南條真菜。この前はありがとう。今日もよろしくね」 


 双葉が「よろしくお願いします」とお辞儀したので、つられて真菜も合わせて頭を下げた。


「どうぞ、あがってください」


 双葉の案内に応じ、部屋の中に入る。

 短い廊下を抜け、リビングルームに足を踏み入れると、ローテーブルに置かれたノートパソコンと向かい合う悟がいた。肩で携帯電話を挟みながら、せわしなくキーボードを叩いている。

 悟が視線で「すまん」と伝えてきたので、真菜は「おつかれさまです」と小さく会釈で返した。


 いつの間にか双葉が飲み物を用意してくれており、どうぞ、とお茶の入ったグラスをダイニングテーブルに置いた。丁寧にコースターまでつけてくれている。よく見るとリビングの奥にはカウンターキッチンもあった。


 それにしても広い部屋だ、と真菜は思った。独身男性が一人暮らしをするような部屋ではない。

 前の彼女と同棲していたときのまま、という噂は本当だったらしい。

 悟のデリケートな話題に立ち入るつもりはないが、どうしても気になってしまう。


「あ、将棋盤! ありがとうございます。えっと、南條さん」


 真菜が持っている厚手の紙袋を見て、双葉が嬉しそうに言った。

 対局の道具は家が近い真菜が持ってきた。そこまで高級のものではないが、決して安くはないものだ。大学生のころ、父親との勝負で勝って手に入れた品である。


「真菜でいいよ。その代わり、私も双葉ちゃんって呼ぶから」


 双葉は少しはにかみ、「じゃあ……マナさん」と名前を読んだ。

 もし対局をしていなければ、きっと想像だにしなかっただろう。目の前の可愛らしい子の内側に、嵐のような激しい棋風が渦巻いていることなんて。


「場所は……ここでいいかな」


 真菜はダイニングテーブルに手際よく将棋盤を広げ、駒箱から駒袋を取り出す。駒袋を開くと、双葉が感嘆の声を漏らした。

 まるで宝石箱を見るような目で駒を見ている。


「これ……菱湖りょうこですか?」


 駒を並べながら、双葉が問いかける。

 将棋駒の書体は同じように見えていくつかの種類がある。菱湖というのはそのうちの一つだ。


「正解。よく知ってるね」


「流れるような線が綺麗なので、すぐわかりました」


 よほどの将棋好きでなければ、一瞬で書体の違いまでは分からない。

 さすが半年で初段になっただけのことはある。


「双葉ちゃんが持ってる駒はなあに?」


錦旗きんきです。なんとなく文字が可愛くて。もちろんこんな立派なものじゃないですけど」


 錦旗は一見可愛いフォントのように見えるが、力強く太い線が特徴の字体だ。

 なるほど双葉に合っている、と真菜は思った。


「あ、チェスクロック! 実物を見るの、初めてです」


 真菜が持ってきた最後の道具に双葉が目を付けた。

 小さな時計が二つ繋がったようなこの道具は、チェスや囲碁、そして将棋の対局で使われる道具だ。持ち時間を自由に設定することができ、どちらか片方の時計だけが進んでいく。自分が指したあとクロックのボタンを押せば、次は相手側の時計が進む、という仕組みになっている。


「私……憧れてたんです。こう、パチッ、ダンッ、ってするの」


「わかるわかる。将棋マンガなんかでよく出てくるもんね」


「そうなんですよ! あの……マナさんの“将棋ウォーリアー”のアバターって、『10月のタンポポ』の縞田八段でしたよね! 好きなんですか?」


「好き好き大好き。最新刊まで全巻持ってるよ! もしかして双葉ちゃんも?」


「はい! どのキャラも良いんですけど、特に名人がカッコよくって!」


「いいよね! 塔矢名人! アニメだと声もまたいいのよ!」


「ええ!? 気になります!」


「今度ぜひ観てみて!」


 歳が一回り離れている相手とはいえ、将棋の話題で女子トークをしたのは初めてだ。

 こんなに楽しいものだとは思わなかった。


「ごめん。ようやく終わった」


 真菜と双葉が好きなキャラクターの話題で盛り上がっていると、悟が横から申し訳なさそうに声をかけてきた。ようやく仕事が終わったらしい。


「休日なのに電話対応だなんて、なにかトラブルっすか?」


「ああ、でもひとまず片付いたから大丈夫。って、もう準備したのか。早いな」


 テーブルの上にはもう盤と駒、そしてチェスクロックの準備はできている。いつでも戦いは開始できる。


「俺、ここで観てていいんだよな」


 もちろん、と真菜が口に出す前に双葉が言う。


「いいけど、絶対に口出ししないでよね」


 なるほど。

 悟に対してだけは素が出る、というより少し天邪鬼あまのじゃくになっているのか。


「じゃ、そろそろ始めよっか。“振り駒”は……先輩にお願いしていいかな」


「そうですね。サトルちゃんは記録係ということで」


 俺が何かするのか、と疑問符を浮かべている悟に双葉が説明する。


を五枚パラパラって落として、表裏の枚数で先手と後手を決めるの。表が三枚以上なら上座のマナさんが先手、二枚以下なら私が先手。ああ、そのまま落とすと駒が傷むから、下にハンカチ敷いてね」


 さすがよく知っている。心なしか嬉しそうにも見える。


「補足すると、後手になった方がチェスクロックの位置を決められるんだよ。指した方の手でチェスクロックを押さなきゃいけないから、利き手側に置きたがる人が多いかな」


「なるほど。それは知りませんでした」


「じゃあ始めるぞ。ええと、を五枚……で、パラパラっと」


 一般的には先手側がほんの少し有利だと言われている。

 だが、真菜はどちらでも構わなかった。自分のペースでしっかりと実力を出し切る。そのことだけを考えればいい。


 悟が落とした駒は、が一枚、が四枚となった。


「私が先手、ですね」


 双葉の顔から、さっきまでの柔らかな空気が消え去った。


「じゃあ、チェスクロックは私の右手側に置かせてもらうね」


 真菜も本気で応える。


「お願いします」


 二人が同時に頭を垂れ、二度目の勝負が始まった。



・・・・ ・ ・・・・・・………─────────────………・・・・・・ ・ ・・・・



 ☖真菜の将棋格言講座☖


 『俗手ぞくしゅの好手』


 盤面が入り乱れて複雑になったとき、どんな手を打てばいいのか悩みますよね。

 そんなときはこの格言を思い出すといいですよ。


 俗手っていうのは、初心者が指すような単純な手のことです。

 戦いが起こっているところに駒を足す、浮いている駒を取りに行く、“囲い”を強化する。いろんな手がまず頭に浮かびますよね。

 何をすればいいかわからないような複雑な場面でこそ、そういうシンプルな分かりやすい手が最善手だったりするわけです。


 人間関係も似たようなものかなって思いますよ。

 たとえばお互いに心の中では複雑な心境だったとしても、まずは好きなマンガの話をしてみたり、とかね。

 それはそうと、ぜひ先輩も読んでください! 『10月のタンポポ3月のライオン』! 

 面白いですよ! 今度貸しますから!

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