☖『一歩千金』
ずっと頭のなかに将棋盤が浮かんでいた。
勝手に駒が動いて、対局が進んでいく。
一日中ひたすら将棋をしていたときなどは、たまにそういうことが起きる。
今日はまだ二局しか対局をしていないが、今まさに真菜はそんな状態だった。
ファミリーレストランでデザートを食べながら悟や双葉と会話をしているときも、脳の別の回路が作動したように、真菜の頭のなかでは巴との対局のシミュレーションが行われていた。
“早石田”と“石田流本組み”。この二刀流が巴の武器だ。片方を警戒すれば、もう片方の武器が襲い掛かる。それにどう対処するべきか。
休憩時間の間ずっと、真菜がこれまで得てきた知識を総動員して脳内の将棋盤で対策を練った。悟から手渡されたお茶の差し入れにも、無意識で受け取るくらいに集中していた。
そして、戦いの時間がやってきた。
個人戦一回戦。「よろしくお願いします」という言葉とともに、いたるところで一斉に勝負の火蓋が切られた。
真菜と巴も、周りから一呼吸おいて挨拶を交わす。
一度圧勝した相手だというのに、巴の表情にはほんの少しの油断も見られない。
それでこそだ、と真菜は深く息を吐いた。
振り駒の結果、先手番は巴となった。
巴は迷わず、歩を突き角道を空ける。
真菜も同様に歩を突いて角道を空ける。
巴はさらに歩を進め、“早石田”の構えを見せる。
真菜が飛車を振って“四間飛車”にすると、同じく巴も飛車を振り“三間飛車”にする。
真菜はそのタイミングで角を交換した。
巴は想定内という顔で角を駒箱の上に乗せる。
“三間飛車”の弱み。それは角を打たれる隙が大きいこと。
これで巴は角の打ち込みを警戒しなければならない。
当然それは真菜も同じことだが、そのプレッシャーの大きさには差がある。
そして真菜は“早石田”の急襲を防ぐため、守りとして手軽な“金無双”を組み始める。これは相振り飛車用の“囲い”で、簡単に作れて上からの攻撃に強い。だが銀が玉の動きを制限するため、追い詰められると非常に脆いというリスクもある。
真菜が“金無双”の準備を始めたのを見て、巴も“美濃囲い”を作り始める。
“金無双”と比べると、“美濃囲い”は固いだけでなく玉の逃げ場もある。つまり、このままじっくりと攻めの陣形を整えさえすれば完全に巴の作戦勝ちだ。
――と、巴に思わせる。
巴が銀や桂馬を動かし、攻めの準備を始めた。
それを見て、真菜は銀の上の歩を突いてスペースを作り、そこに銀を押し上げた。真菜の“金無双”が少しずつ形を変えていく。
「え……?」
最初は
「……右矢倉?」
相居飛車戦で使われる“矢倉囲い”。「将棋の純文学」と呼ばれるこの“囲い”を相振り飛車戦用に反転させたもの。それがこの“右矢倉”だ。上部からの攻撃に非常に強く、相振り飛車戦においては“穴熊囲い”すら凌ぐとも言われる。
通常であればここまで組み上げることは難しいだろう。だが巴は角の打ち込みを警戒しながら攻めの準備をしなければならなかった。そのため、すぐに攻めに転じることは難しく、気付いたときにはもう手遅れとなる。
そうして真菜の“右矢倉”が完成した。
「金無双から……そんな組み方が……」
「年の功ってやつ、かな」
将棋を覚えて十年間、ずっと飛車を振っているのだ。
経験値では負けない。
そんな矜持とともに、真菜は強く飛車を振った。
“向かい飛車”――つまり巴の玉に相まみえる位置へ。このまま真菜からも攻める、という意思表示だ。
ここからは攻め合いであり、守り合いである。
最初に仕掛けたのは巴だった。
振り飛車で理想の攻めの形である“石田流本組み”。
対振り飛車戦で最強の囲いである“右矢倉”。
巴の飛車・角・銀・桂馬が次々と強襲し、少しずつ真菜の“囲い”が崩されていく。だが、それと同時に巴の攻め駒も減っていく。
巴が次の攻めのために力を溜めた一瞬の隙。
その瞬間、真菜は飛車先の歩をぶつけた。それを巴は取らざるを得ない。
今度は真菜が攻める番だ。
このまま最後まで攻め切る。
そう念じながら、真菜は奪った駒を惜しまず投入していく。
さらには飛車を捩じり込み、相手の隙を作り出す。
飛車を犠牲にして生まれた一点の急所。
最初に交換した角を駒箱から拾い上げ、盤上に大きな
巴の“美濃囲い”に決定的な亀裂が走る。
――ああ、なんだか双葉ちゃんの攻め方みたいだ。
細い攻め筋を歩みながら、ふと真菜はそんなことを思った。
そして、巴が頭を下げた。
「……ありません」
その言葉を聞いて、大きな嘆息が胸から溢れた。
巴に見えないよう、真菜は机の下で静かに拳を握った。
・・・・ ・ ・・・・・・………─────────────………・・・・・・ ・ ・・・・
☖真菜の将棋格言講座☖
『
将棋の駒のなかで一番価値の低い駒は、もちろん歩です。
前にしか進めないですし、数もたくさんありますしね。
でも、攻めにも受けにも使うことができる超重要な駒でもあるんです。
たとえば受けなら『金底の歩』の手筋だったり、飛車や香車で攻められたときの合い駒(攻めのラインに挟むように打つ駒)に使ったりと、いろいろ使い道があるんです。
逆にもし手持ちに歩が無かったら、そこを相手に突かれて大変なことになります。
『歩の無い将棋は負け将棋』とはよく言ったものですね。
ありふれたものや、珍しくもないもの。それを活かすのは、結局のところやり方次第ってことですよね。
普段の何気ない経験や知識。
そういうものの本当の価値が、いまやっとわかった気がするんです。
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