☖『金は引く手に好手あり』

 悟に将棋を教えることになってから二週間ほどが経った。

 落ち着いて話ができる場所ということで、最初に話をしたカフェを使うことにした。真菜としては悟のマンションでも良かったのだが、さりげなく切り出したときに悟が「さすがにそれは」と困っていたので、すぐに引き下がった。

 無理攻めは禁物、と真菜ははやる気持ちを抑えた。自然な流れでプライベートの連絡先も交換できたのだ。焦る必要はない。


 仕事が定時で終わった日はどちらともなく連絡を取り合い、カフェで待ち合わせる。そして小一時間ほどをしたあと、として夕飯をおごってもらう。そんな決まりが自然とできていた。

 真菜はそれで十分幸せだったが、何度か繰り返すと欲も出てくる。

 

「別に私は休日でも構わないっすよ」


 そんな真菜の申し出に対して、悟は「そこまでさせるのは悪い」と遠慮した。

 休日に会うことを嫌がっているのではなく、純粋に申し訳ないと思っているだけのようだった。ならば、対外試合を名目にして将棋道場へ行くことを提案するのも良いかもしれない。どうせ自分は毎週のように通っているのだから、悟が遠慮する理由もない。

 そんなことを画策していたとき、真菜は重要なことをふと思い出した。


「あ、そういえば大事なことを聞くの忘れてました」


 悟に将棋を教えることにばかり頭がいっぱいで、対局相手のことを全く聞いていなかった。悟の親戚という話だったが、どのくらい強いのだろう。


「親戚と対戦してボロ負けしたって言ってたじゃないですか。相手の棋力はどれくらいか分かります?」


 真菜の質問に答える直前、悟がなぜか少し誇らしい顔をしたのが気になった。


「ああ、中学生のイトコで、将棋を始めて半年らしいんだけどさ」


「中学生?」


 てっきり親戚のおじいさんの相手をしようとしているのだと思い込んでいた。

 将棋には年齢も性別も関係なく、平等に戦える。真菜が将棋の魅力だと思っていたことなのに、それでも将棋道場の顔ぶれのような相手を勝手に頭の中で浮かべていた。

 だが、将棋を始めて半年ということなら、悟と同じくらいの棋力だろう。ボロ負けしたというのも、きっと奇襲戦法を食らっただけに違いない。しっかり対策を練れば決して勝てない相手ではない。

 そんな真菜の想定は、悟の次の言葉で完全に砕かれた。


「このまえ“将棋ウォーリアー”で初段になったって言ってた」


「初段!? 半年で!?」


 自分が初段に上がったのは何年目だっただろうか。

 昔と比べて今はパソコンやスマートフォンで手軽に他人と対局ができるし、AIを使ったソフトも発達している。デジタルネイティブの世代なら、そういったものも活用しているのかもしれない。だが、そうだとしても早すぎる。


「頑張れば勝てるかな?」


 無邪気に問いかける悟に向けて、真菜はどう伝えるべきか言葉を選んだ。


「んーと、ですね。正直……かなり難しいと思います」


 真菜が想像していたよりも悟の飲み込みは早く、あっという間に基本的な定跡は覚えてしまった。だが、それでもあと数週間で初段を相手にするには程遠い。


「先輩は覚えが早くて、今ならたぶん6級くらいはあります。もう少し終盤を鍛えれば、すぐにでも5級に上がれるでしょう」


 でも、きっと一度その辺りで伸び悩む。

 真菜は自身の経験と将棋道場の仲間たちのことを踏まえて、そう確信していた。

 棋力の上がり方は決して直線的ではない。伸びる時期と停滞する時期を繰り返して、少しずつ強くなるのだ。


「将棋に運やマグレは存在しないです。なので、それだけの差を覆すのは……」


「あー、やっぱりそうか」


 悟も薄々気付いていたようではある。“将棋ウォーリアー”でのネット対局は、だいたい似た実力のプレイヤーとマッチングがされる。だが、深夜などの時間帯だと、稀に高段者との対局が組まれることがある。おそらくその際に痛い目を見たのだろう。


「そのイトコさん、かなり素質ありますよ」


 会ったこともない相手なのに妙に悔しかった。数字上はまだ自分の方が上だが、いつ追い付かれるかわからない。

 だが、今はまず悟の対局のことを考える。


「先輩。将棋には“駒落ち戦”っていうのがあります」


「ああ、ハンデをつけてもらうやつか」


 駒落ち戦とは棋力の差に合わせて、駒をいくつか落とす戦いのことを言う。

 相手が初段なら“飛車落ち”もしくは“飛車・香車落ち”が妥当なところだろう。


「そうです。ちゃんと対等に戦うためなので、決して恥ずかしいことじゃないです」


 うーん、と決めあぐねている悟に向けて、真菜は付け加える。


「ちゃんと先輩の今の棋力を伝えれば、きっとイトコさんは駒落ち戦でも受けてくれると思います」


「そうか?」


「大丈夫です。そこは私が保証します」


 真菜は自信を持って答えた。

 そして、こう付け足した。


「将棋指しは、初心者が将棋に興味を持ってくれること自体が何より嬉しいもんですから」


 なるほど、と悟が笑った。

 もちろん自分も例外ではない。もし将棋の手ほどきをするのであれば、悟でなく他の同僚や友人でも進んで力を貸しただろう。

 これほどまでに力を入れるかどうかは別の話だが。


「でも、なんでまた先輩が相手することになったんすか?」


 真菜は純粋に疑問に思った。初段の実力を持つ人が、なぜ素人の悟と対局することになったのか。


「ああ、周りで将棋指せる奴がいなくてネットでしか対局したことがないんだってさ。で、実際に駒を使って対局をしたいんだって呼ばれたんだよ」


「なるほど……それで先輩が付き合ってあげたと」


「俺もルールくらいは知ってたからな。でもあんなに強いと思わなくって。ボッコボコにされて、雑魚ザコ呼ばわりまでされちゃってさ。あーあ、昔はすごく懐いてくれて可愛かったのに」


 可愛かった。

 その言葉が棘のように刺さる。


「……ん? もしかして、そのイトコさんって女の子なんすか?」


「ああ。今年、中1になったばっかりだけどさ、やっぱ女の子の反抗期って早いのかな? あの様子だと叔父さん、大変そうだ」


 自分の考え過ぎだということはわかっている。


 ネット対局ばかりでなく実際に駒を使いたいという気持ちは理解できる。

 だが、それだけでわざわざ年上の従兄を呼ぶだろうか。

 実際に対局をしたいのなら学校で探せば数人くらいはいるはずだ。それなのにわざわざ悟を呼ぶということの意図を感じずにはいられなかった。


「いつかそのイトコちゃんと手合わせ願いたいですね」


 独り言のように小さく呟いた真菜の言葉は、週末のカフェの喧騒にかき消された。



・・・・ ・ ・・・・・・………─────────────………・・・・・・ ・ ・・・・

 


 ☖真菜の将棋格言講座☖

 

 『金は引く手に好手あり』

 

 ほんと、いい格言ですよ、これ。

 って斜め下以外に動けるんで、自陣の守りに力を発揮するのは下段にいるときなんですよね。なのでが相手から狙われてるときは、落ち着いてひとまず下段に引くと粘れることが多いっていう、そんな意味です。


 イケイケのときって、つい守りが疎かになっちゃいますからね。攻めたい気持ちを抑えて、を下に引く気持ちで、こうグッと耐えるっていうか、我慢するっていうか。それがいつか良い結果に繋がるんだって信じて……。そう、駒を前に進めるだけが将棋じゃあないんですよ。


 え? なんでそんなに気持ちがこもってるのかって?

 そ、それはあれっすよ、将棋指しとしての経験っていうか、いろいろですよ、いろいろ。

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