【手番】真菜

☗『取る手に悪手なし』

 なんて綺麗なゲームなんだろう。


 将棋盤の上で整列した駒を初めて見たとき、真菜はそんなことを思った。

 高校一年生のときだった。 


 きっかけは笑えるくらいに単純だった。同じクラスの気になる男子が「趣味は将棋」と友人と話しているところを聞いた。ただそれだけの理由で、本人に話しかけるよりも先に真菜は将棋を覚え始めた。

 父からルールを教わり、様々な戦法書を読んだ。学校の勉強よりも熱中する日々が数ヶ月続いた。

 ある日、真菜が勇気を出して「自分も将棋が好きなんだ」と声をかけると、相手は喜び、真菜に対局を持ち掛けた。最初の対局は真菜の完敗だった。

 それからは放課後に対局をするのが習慣になった。校内で「将棋カップル」と噂されていることも真菜には嬉しかった。いいところを見せたいと、真菜はさらに将棋にのめり込んだ。


 ある放課後、真菜の白星が何度も続いたことがあった。

 将棋の実力は階段状に上がるという。真菜の棋力が急激に上がった時期と、相手の棋力が停滞していた時期がたまたま重なっただけかもしれない。

 あまりにも落ち込む相手を気遣い、その日の最後の対局で真菜はほんの少し手を抜いて負けた。

 そして、その男子は二度と口を聞いてくれなくなった。


 それからしばらくは駒に触れることのない日々が続いたが、ふさぎ込む真菜を見かねた父が半ば強制的に近所の将棋道場へと連れて行った。

 道場には年配者が多く、真菜を孫のように可愛がってくれたが、対局となると皆本気だった。勝つと喜び、負けると悔しがる。そんな平等で純粋な空間が真菜には心地が良かった。苦い失恋の痛手は将棋が忘れさせてくれた。


 社会人になる頃、真菜は初段程度の棋力を身に付けていた。会社では将棋を指す仲間が見つからなかったが、それでもよかった。週末に道場に通えばそれで充分だと思っていた。

 真菜が悟と出会ったのはそのころだった。

 

 上司に対しても同僚に対しても、そして新人である自分に対しても接する態度を変えない人だった。

 相手が大口の顧客であっても、正しいことは正しいと主張する。

 年下の意見でも偏見を持たず聞き入れ、自分が間違っていたときは素直に謝る。

 真菜が初めて出会うタイプの人間だった。


 純粋で、平等。

 まるで将棋みたいな人だ。

 そう思った瞬間、真菜は心惹かれていた。


 悟のことを知るうちに、長く付き合っている恋人がいることを知った。

 その恋人と同棲生活をしていることも、噂好きの同僚が教えてくれた。

 

 だが、あるときから悟から目の光が失われていることに真菜は気付いた。

 本人は決して何も言わなかったが、何かがあったのだろうと真菜は察していた。

 少しして、悟が恋人と別れたらしい、という噂が同僚の間で持ち上がった。


 目から、言葉から、表情から熱が失われている悟を見ているのはつらかった。見ていられなかった。

 ある日、悟と仕事で同行した帰り道、真菜は思い切って「将棋をしてみないか」と切り出した。こんなに勇気を出したのは、高校生のころ以来だった。

 それを機に仲良くなれればという下心が無かったとはいわない。だが、自分が失恋の痛手を将棋に癒してもらったように、何かしら悟の助けになるのではないか。そう思っての誘いだった。

 だが、悟の反応は完全な拒否だった。

 恋人がいることを知ったときよりもショックだった。


 今思えば当然だ。失恋の痛みは時間が解決するしかない。時期尚早だったのだ。

 悟が異動になり、話す機会は減ってしまったが、社内で会うたび少しでも話をするようにした。それからもう一年以上が経つ。


 だが、今日の悟は様子が違っていた。出会ったころのように、目に熱を帯びていた。

 悟に火を入れたきっかけがなのかもしれないと思うと、真菜は嬉しくてたまらなかった。


 悟は「どんな戦法が強いのか」ということを真菜に聞かなかった。

 ただ、どんな戦法があるのか、どういうものが自分に向いているのか、と純粋に聞いてきた。

 そうそう、そういうところなんだよ。先輩の良いところは。

 ちゃんと自分で違いを知って、自分で選ぼうとするところ。


 真菜は布団の中でにやける顔を抑えられなかった。

 

 棒銀戦法もきっと先輩には合っている。

 先輩は一途だから。


 ベッドの上で目をつぶりながら今日の会話を反芻はんすうする。

 だが、自分の態度はあからさますぎたかもしれない。

 やり過ぎたかもしれない。距離を詰め過ぎたかもしれない。

 将棋にかこつけて、手まで握ってしまった。

 思い出すだけで顔が熱くなる。


 ……でも、このチャンスを逃してはいけない。

 今が踏み込む時だ。


 一瞬の隙を突くカウンター戦法。それが四間飛車の戦い方なのだから。



・・・・ ・ ・・・・・・………─────────────………・・・・・・ ・ ・・・・

 


 ☗双葉の将棋格言講座☗


 『取る手に悪手なし』


 戦いの最中、相手の駒を取れそうなときってあるでしょ。

 そういうとき、とりあえず初心者のうちは目の前の取れる駒をパッと取っちゃえばいいってこと。これならサトルちゃんも迷わないでしょ。


 でもね、それで話が終わるほど将棋は単純じゃない。この格言はもう少し裏の意味もあるの。

 それなりに将棋を指せるようになると複雑な状況になることもあってね。取れるけど、取ったら自分が不利になる。そんな局面も出てくるのよね。でも、取らないで放置すれば、自分の駒が取られてしまう。

 つまり「取れないようでは既にまずい状況」ってこと。

 その辺がわかるようになれば、サトルちゃんも少しは強くなるんじゃない?

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