☗『仕掛けの筋に飛車を振れ』

 このカフェに来るのも何度目だろう。もはやこの店の常連客となっている。そろそろ店員にも顔を覚えられているかもしれない。どうせなら「平日夕方によく来るカップル」として認識されているといいな。

 そんなことを真菜が空想していたとき、悟がコーヒーを飲みながら言った。


「そうそう。来週末、“飛車落ち”でやることになったよ」


「おお、良かったっすね! ちょうどいいだと思いますよ」


「南條の言う通り、正直に今の棋力を言ったら、すんなり受けてくれたよ」


 どの程度のハンデをつけるのかをと呼び、4級/段の差があるのなら”飛車落ち”が妥当と言われている。

 もうすぐ悟は5級に上がろうとしているところなのでハンデとしては少ないが、しっかりと対策をすればちょうど良い勝負になるだろう。そこは自分の腕の見せ所だ。


「ただ……なんか交換条件で罰ゲームを持ち掛けられた」


 悟の口から出た思わぬ単語を真菜は聞き返す。


「罰ゲーム?」


 中学生らしい子供っぽい発想に、真菜は安心した。

 ほら、やっぱり自分の考え過ぎだった。


「負けた方が言うことを何でも一つ聞くって」


「へえ……」


 若干雲行きが怪しい気がしてきた。


「……もしイトコちゃんが勝ったら、先輩に何をお願いするんでしょうね?」


「なんか連れて行って欲しいところがあるんだってさ。どこなのかは教えてくれなかったけど」


 それ、向こうは“デート”のつもりかもしれませんよ。

 もちろん、そんなことを真菜は口にしない。代わりにもう一つ質問をした。


「じゃあ先輩が勝ったら何をお願いするんです?」


「んー、なんだろうなあ。最近、口が悪くなってたから、ちゃんと言葉遣いを直すように、とかかなあ」


 うわあ。それ絶対嫌がられるやつ。

 名も顔も知らぬ悟の従妹に、真菜は少し同情をした。


「じゃあ日程も決まったところで、特訓の仕上げといきましょう」


 気を取り直して、真菜は本題に入る。

 相手に多少の同情はしたものの、最後まで手は抜かない。デート疑惑がかかっているのならなおさらだ。


「イトコちゃんはどんな戦法を使ってました?」


 相手の戦法に合わせた対策をすることで勝率は格段に上がる。

 敵を知り己を知れば百戦危うからず。相手を知ることは将棋においても非常に重要だ。


「ええと、最初にいきなりを交換されて……」


「おお、“角換わり”ですか」


「で、“居飛車”なんだけど、たしかが真ん中の列のの上にいた」


「“角替わり腰掛け銀”! これまた本格的っすね」


「なんか難しそうな名前だな」


「プロでもよく使われてる戦法っすよ。イトコちゃん、ほんとにすごいですよ」


 お世辞ではなく心から感心した。

 従妹を褒められたからだろうか、悟も満更ではない顔をしている。


「真面目な話、半年っていう短い期間で初段まで上がるのは並大抵のことじゃないです。だから、おそらくイトコちゃんはこの戦法だけを突き詰めたはず」


 悟が真剣な顔でうなずいている。


「でも逆に言えば、他の戦法を知らないということです。そこに勝機があります」


 真菜は以前と同じように紙ナプキンを取り出し、そこに“腰掛け銀”と書いた。


「“居飛車”の“角換わり”は、をどう使うかで三つの戦法に分かれます。一つはこの“腰掛け銀”、そして先輩が使っている“棒銀”、最後に“早繰り銀”っていうやつです」


 真菜は残り二つの戦法を紙ナプキンに書き足した。


「この三つは銀の位置がほんのちょっと違うだけなんですけど、そのちょっとの違いでそれぞれ相性があるんです」


「相性……?」


「この三つはジャンケンみたいな関係なんですよ。面白いでしょ」


 真菜は左手でグー・チョキ・パーと動かし、紙ナプキンにも三すくみの矢印を書き足した。


「イトコちゃんの“腰掛け銀”がチョキだとしたら、“棒銀”はグーです。ラッキーなことに相性としては先輩が有利なわけです」


「なる……ほど」


「なので、どういうタイミングでどういう風に有利なのかを先輩は理解して、その相性を最大限フル活用するのが最後の課題です!」


 一週間もあれば悟なら理解できるだろう。

 駒落ち戦とはいえ、ネット対局とは違うの勝利の味を悟に知ってほしい。


「……すごいな」


「ええ、すごいでしょ。将棋って」


 このまま悟にも将棋にハマってほしい。そうすれば今回の対局が終わった後も、この関係を続けられるかもしれない。

 真菜がそんなことを思っていると、悟がコーヒーカップのふちを眺めながらぽつりと呟いた。


「いや、南條がだよ。初心者の俺にこんなに分かりやすく教えてくれて、本当に助かった。ありがとう」


「あ、いえ、そんな……」


 想定外の悟の台詞に真菜は上手く言葉を返せなかった。


「もし勝てたら、何かお礼するよ」


 何が何でも悟には勝ってもらわなくては。

 真菜は黙ったまま、ただそう強く願った。



・・・・ ・ ・・・・・・………─────────────………・・・・・・ ・ ・・・・

 


 ☗双葉の将棋格言講座☗


 『仕掛けの筋に飛車を振れ』


 これ、言葉の通り“振り飛車党”の人の格言なんだけどさ。要するに戦いが起こりそうなところにを配置しろって話。

 “振り飛車”の上手い人って、こっちの攻め方に合わせてを動かして受けるんだけど、それが流動的っていうか変幻自在っていうか、なかなか厄介なのよね。でも、自分からは攻撃を仕掛けずにチョロチョロ動いて相手の攻めを待つのって、なんか消極的で私には合わないなあ。もちろんそれも将棋なんだけどさ。


 でもね、そういう相手の受けを、ゴリ押しの攻めで突破できたときって、なんていうか達成感がすごくって気持ちいいんだよね。

 きっとサトルちゃんも私と同じ“攻め気質”だから、上達すればそのうち分かるんじゃない? まあ、時間はかかるだろうけど。

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