☗『遠見の角に好手あり』

 駒落ち戦は、上手うわて側(駒を落とした方)が先手と決まっている。

 なので今回も“振り駒”をする機会はなかった。しかし、それはもう双葉にとって些細なことになっていた。今回はが掛かっているのだ。落ちという大きなハンデをつけている以上、決して油断はできない。


「負けた方はなんでもお願いを聞くこと」


 “駒落ち戦”の打診があったとき、反射的にそんなことを言ってしまった。

 だが、改めて考えるとだったように思う。


 以前から東京の千駄ヶ谷せんだがやにある将棋会館に行ってみたいと思っていた。プロ棋士が対局をしている将棋会館は、将棋指しにとって一種のだ。

 だが、電車で数時間かけて一人で行くのは心許ない。今回のを大義名分にして、悟に連れて行ってもらおう。

 それが双葉の想定した攻め筋だった。

 幸い、悟の住んでいるマンションは千駄ヶ谷から遠くない。

 もしかしたら連休を利用して泊りがけというのも可能かもしれない。悟のところに泊まるのであれば、きっと親も許してくれる。


 よし、絶対勝とう。

 そう意気込んで双葉は将棋盤に目を落とした。交換のあと、お互いに簡単な“囲い”を作り、局面は序盤から中盤に差し掛かろうとしている。


 駒落ち戦でを交換することは、上手側が不利になる。飛車が無い分、打ち込まれる隙が大きいからだ。双葉はそんなことは百も承知で交換に臨んだ。

 駒落ちなんて関係ない。自分の一番得意な戦法で迎え撃つ。

 双葉は最初からそう決めていた。


「へえ、兜矢倉かぶとやぐら


 双葉は悟の陣形を見て感心した。

 を打ち込まれる隙を無くしながら、しっかりとを囲っている。

 ちゃんと考えて指しているのが分かる。以前とは雲泥の差だ。

 

 中盤に入り、先に仕掛けてきたのは悟だった。

 

「ふーん、“棒銀”ね」


 悟が先のを伸ばし、その後ろからが追撃してくる。

 その戦法を選ぶのも、なんだか悟らしい。

 実直で、一途で、単純で。

 でも、気付けば深いところにまで突き刺さっている。


 やっぱり性格が表れるものだな、と双葉は思った。

 テレビで見るプロ棋士にはそれぞれの棋風きふうがあり、それが棋士自身のキャラクターにもなっている。アマチュアだって、それは同じだ。

 だから悟が“棒銀”を使うのはごく自然のことのように思えた。


 そんな思索が呼び水となり、不意にいくつもの疑問が湧いてきた。


 なら私が“角換わり腰掛け銀”を選んだのはどうしてなのだろう?

 この戦法にこだわる理由はあるのだろうか?

 ただプロ棋士の指し方に憧れて真似をしているだけ……?


 ああ、そうか。

 背伸びをしたいのか。

 私は、いつも――。


「――そっちは“腰掛け銀”ってやつだよな」


 思考の沼に落ち込みそうな双葉を、悟の一言がすくい上げた。


「そんな難しそうなの使えて、ホントすごいよな」


 それは違うよ、サトルちゃん。私はただ……。

 双葉はそんな弱音を喉の奥に飲み込み、姿勢を正した。


「じゃあ、どっちの攻めが早いか勝負ね」


 ニッと不敵に笑い、双葉はを中央に進めた。

 こっちは得意の“腰掛け銀”で攻めていく。

 もちろん悟の“棒銀”との相性が少し悪いことも承知の上だ。


 そこからは激しい駒と意地のぶつかり合いが続いた。


 取ってパチン取られてパチン

 取ってパチン取られてパチン


 まるで二人で演奏をしているように、リズミカルな駒音が部屋に響く。

 演奏が進むにつれ、お互いの喉元に刃がじりじりと迫る。


 そして唐突にリズムが変わった。

 悟がを犠牲にしての道をこじ開ける。

 一見、無理な攻めにも見える勝負手だ。


 双葉は迷った。

 このとがめるためには取ったばかりのを使えばいい。でも、もう少しで悟のを詰ませられそうな気がする。

 なら、このは攻めに使う。

 そう決心し、双葉は相手の陣地にを打った。


 あ。しまった。


 あやうく声が漏れそうになるのを双葉は必死で抑えた。

 に五手詰めが掛かっている。

 完全に見落としていた。


 負けた。

 双葉は奥歯を噛みしめる。悔しい。悔しい。


 そのあと悟が考えていた時間は数分程度だったが、双葉には数時間にも及ぶ責め苦のように感じられた。

 そして悟は思いついたように――自陣にを打った。


 はっと盤から顔を上げ、悟を見る。

 悟は自慢げに笑った。どうだ、良い手だろう。そんな声が聞こえた気がした。


 たしかに良い手だよ。自分のを守りつつ、遠くからの援護もしている。上手いの使い方だ。本当に、前とは全然違う。

 でも、そうじゃない。そうじゃないんだよ。そのまま攻めていれば、勝っていたのに。


 終盤はそのまま実力差が反映された。

 双葉のは悟より一手早く安全な場所に逃れ、悟のは“詰み”となった。


「……負け、ました」


 悟が悔しそうに頭を垂れる。


 命拾いをしたにも関わらず、双葉は残念な想いに包まれた。

 そう感じている自分が不思議だった。


「じゃあ、もう一回、する?」


 気が付くと、無意識のうちにそんな言葉が出ていた。


「サトルちゃんがやりたいなら、別にいいよ」


 もちろん、と悟が力強く答える。


「ただ、お願いはちゃんと聞いてよね」


 双葉は忘れそうになっていた大事なことを、しっかりと付け足した。



・・・・ ・ ・・・・・・………─────────────………・・・・・・ ・ ・・・・

 


 ☗双葉の将棋格言講座☗

 

 『遠見の角に好手あり』


 今回のサトルちゃんの打ちはまさにコレで、たしかに良い手だったよ。

 でも、良い手が浮かんだときって、逆に一旦落ち着いた方がいいよ。あんまり浮かれると、その他の手を考えるのをやめちゃうから。

 まあ、猪突猛進系のサトルちゃんには難しいかもだけど。


 遠見とおみってのは、遠くから見つめるっていう意味。

 つまり、安全な自陣にを打って、しっかり相手の陣地にまで利かせられると、好手になりやすいってこと。

 ポイントは、安全な場所に打つってことかな。

 って強そうに見えて、案外脆いんだからね……。

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