【手番】悟
☖『長い詰みより短い必至』
もうすぐ決勝戦が始まろうとするなか、悟は二人に声をかけることができなかった。
駒を並べながら一言二言交わしたあとは、双葉も真菜も黙ったまま、じっと互いに見つめ合っている。そこに自分の入る余地はない。
寂しいような、羨ましいような、誇らしいような。
そんな複雑な感情が悟の胸に渦巻いていた。
「せっかくだ。兄ちゃんが振り駒してやんな」
突然、桑原が悟の肩を叩いた。
真菜の陣地から歩を五枚手に取り、悟の手に渡す。
「同じチームのよしみだろ。振り駒の仕方はわかるか?」
「あ、はい。大丈夫です」
双葉と真菜に目を向けると、黙ったまま小さく頷いた。
ギャラリーの注目を浴びながら、悟はおみくじを引くときのように手の中で駒を振り、真菜が出したハンカチの上にパラパラと落とす。
歩が三枚、と金が二枚。
表の方が多いため、上座の真菜が先手となる。
「ちょうど時間だな。決勝戦、始め」
桑原の宣言を合図に、二人が同時に「お願いします」とお辞儀をする。
窓越しに伝わる車の走行音やクラクションを背景にして、駒音とチェスクロックを叩く音が道場内で響く。
パチ、タン。
パチ、タン。
規則正しく響く音。
悟はそこに不思議な声を聞いた。
――とりあえず角交換します?
――んー、今回はやめとく。
――やっぱり穴熊ですか?
――急戦仕掛けて来そうだから、美濃囲いにしとこうかな。
もちろんそんな会話が行われているわけではない。
だが、悟にはたしかに聞こえた。駒を通して語り合う二人の声が。
――こっちは手軽に舟囲いにします。
――じゃ、今のうちに囲いをレベルアップさせちゃうよ。
――そうはさせません。そろそろ攻めますよ。
――やっぱり急戦志向だよね。そう思ってた。
――バレてましたか。でも、こんなのはどうです?
――え、うっそ。
ここまでほぼノータイムで指していた真菜の手が止まった。
それまで固唾を飲んで見守っていた観客も、ほんの少しざわついた。
双葉が飛車を動かしたのだ。
だが、それは“振り飛車”ではない。
「“右四間飛車”か。なるほどな」
隣で見ている桑原が小さく呟いた。
「……これ、小笠原くんが使ってた戦法ですよね? 双葉に使えるんですか?」
できるだけ小声で桑原に問う。
桑原も対局の邪魔にならないよう小声で返す。
「右四間の攻め方は“腰掛け銀”を使うからな。感覚としては似てるんだろう」
たしかにこれまで双葉が使っていた攻め方と似た形だ。
銀が中央の歩の上に鎮座している。
「それにな、“右四間飛車”ってのは“四間飛車”の天敵って言われてんだ。“四間飛車”にすれば飛車のラインが攻め駒の数で負けちまうからな」
盤面を見ると、飛車と飛車が真正面から睨み合っている構図になっている。
まるで互いの意地がぶつかり合うように。
――さあ、戦法の相性はこっちが有利ですよ。どうしますか?
――じゃあ、私もこうする。
――なるほど、さすがですね。
「そう。“四間飛車”が対抗するためには、同じく“腰掛け銀”の形にするしかない。真菜ちゃんもよく分かってんな」
真菜の銀が歩の上に進出した。双葉の銀と鏡で反転させたような位置だ。
戦法も棋風も駒組みも全く違うのに、まるで鏡映しのように似た駒の配置になっていることが不思議だった。
「戦いが始まると一瞬だぜ」
桑原がそう言った矢先、双葉が桂馬を跳ねた。
――さあ、始めましょう。
――ついに来たね。
双葉の桂馬が真菜の角を狙う。
真菜は角を避けるが、双葉はその隙を突いて歩を突く。
――取ると私の角が通りますよ。
――でも取らないわけにはいかないからね。
――じゃあ遠慮なく馬になります。
――なら私の角も動かそっかな。
――え?
今度は双葉の手が止まった。
真菜の角が双葉の飛車の前に飛び出した。角の下には歩が控えているため、飛車で取ることはできない。
一分間ほどだろうか。
双葉が口元に手を当てて考える。
そして、覚悟を決めたように飛車を手に持った。
――え? 飛車切り?
――香車を取られて馬を作られるよりはマシです。
「これで双葉ちゃんが角二枚、真菜ちゃんが飛車二枚か。面白ぇな」
桑原が楽しそうに盤面を眺めている。
素人目からすると、囲いが固く、飛車を二枚も持っている真菜が優勢に見えるが、違うのだろうか。
――まだ攻めは終わってません。
――でも飛車には金が紐づいてるし、また交換する?
――いいえ、さっき取った桂馬で金の紐を外します。
――なるほど。でもいったん下に避けてから、その桂馬を銀で取っちゃえば。
――そうはいきませんよ。
真菜の飛車の足元をめがけ、双葉が角を打ち込んだ。
「くっく。攻めに使われる前に飛車を狙い撃つわけか」
今度は真菜が長考に入った。
額に両手の指を当て熟考している。
同じく一分ほど経ち、真菜が飛車を手に取った。
そして、双葉の角や馬から遠ざかる位置へと飛車を逃がす。
「そう、引くのも勇気。良い判断だ」
桑原が感心したように呟く。
――なら、この桂馬を
――でも時間かかるでしょ。それまでは私のターン。
真菜が駒を相手の陣地に打ち込み、反撃を始めた。
手持ちの桂馬や歩を効率よく使い、双葉の“舟囲い”のバランスを崩し、満を持して飛車を打った。
「真菜ちゃんの攻めも、なかなかサマになってきたな」
桑原の言う通り、無駄のない切れ味の鋭い攻めが双葉の守備陣を削っていく。
そうして互いの喉元に互いの刃がじりじりと迫る。
受けるか、攻めるか。その判断が勝負の明暗を分ける。
まず真菜が仕掛けた。
悟にもすぐに理解できるほど明快な手。もし次に双葉が何もしなければ“詰み”となる、いわゆる“詰めろ”と呼ばれる状態。こうなると双葉は一度受けに回る必要がある。
ふう、とため息を吐き、双葉はおもむろにポケットから何かを取り出した。
ラムネの容器だ。それを一気飲みをするように傾け、残っていた粒を口に放り込む。
そして、今日一番の長考に入った。
道場に長い沈黙が流れる。
窓から差し込む夕焼けの陽に照らされて、双葉の顔が燃えるように紅い。
残り時間が僅かだと知らせるアラームが鳴った。それと同時に双葉の手が動く。
その手の先は、真菜の陣地。
――受けないの!? え? うそ、詰みがあるってこと!?
真菜の焦りが悟にも伝わった。
双葉は当然のように馬を切り、金を切り、真菜に王手をかけていく。
詰むのか、詰まないのか。真菜に分からないものが、悟に分かるはずもない。
桑原に状況を聞こうと横を見ると、そこに桑原の姿は無かった。
読み切っている、というように双葉は間髪入れず指していく。
真菜は即詰みを避けるよう、慎重に双葉の攻め駒を取り、あるいは玉を逃がしていく。
そこから五手ほど指したころ、急に双葉の手が止まった。
真菜が角を打ち守備を固めた瞬間だった。
その角は双葉の玉にも届いていた。
「逆王手ってやつだ」
気付くと桑原が悟の横に戻っていた。
「王手がかかってる以上、角の放置はできねえ。かといって――」
桑原はそれ以上は何も言わず、黙って盤面を見つめていた。
残り時間が数秒に迫るなか、双葉は苦悶の表情で玉を逃がした。
その瞬間、攻守が逆転する。
「読めるが故の落とし穴……だな」
詰めるつもりで手駒を使い切った双葉に、真菜の逆襲を防ぐ術は無かった。
その数手後、双葉が大きくうなだれる。
「…………負けました」
夕焼けの陽に照らされて、こぼれ落ちる涙が紅く煌めいていた。
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☖真菜の将棋格言講座☖
『長い詰みより短い
次に相手が何もしなければ詰む状況のことを“詰めろ”と言います。
そして、仮に相手が何をしたとしても次に詰む状況のことを“必至”もしくは“必死”と言います。つまり“詰めろ”の上位バージョンですね。
ギリギリの戦いにおいては一手差が勝負を分けることもあります。そんなとき、長い詰みを読むことができれば、それだけで相手よりも圧倒的に有利に立つことができます。でも、長い詰みを読むということは生半可なことではありません。手数が増えれば、読まなければいけない局面は指数関数的に増えていきますからね。
アマチュアの戦いにおいては、長い“詰み”を読むよりも、短い手数で“必至”をかける方が有効なことが多い。そういう話です。
でも……深く読むことを止めない姿勢を私は尊敬します。
たとえリスクが大きくても、全力を尽くして勝ちに行こうとする。
そんな双葉ちゃんだから、私は……絶対負けたくないって思えるんです。
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