☗『金はとどめに残せ』
こぼれる涙を意に介さず、双葉は局面を戻していく。
真菜は何も言わずそれに応じる。
対局を巻き戻すように二人が交互に指していき、真菜が角を打った場面で双葉の手が止まった。
「……これを読めてませんでした」
音もなく雫がこぼれ落ちる。
だが、その表情には悔しさや後悔といった感情は含まれていない。事実をありのまま受け入れた潔さがあるだけだ。
いつのまにこんなに強くなったのだろう。
負けてなお凛とした態度を崩さない双葉を見て、悟はそう感じずにはいられなかった。
「たった一つの読み落とし、だな」
桑原が二人の間に立ち、静かに言った。
「だが、それを見つけた真菜ちゃんを褒めるべきか」
「いや、私はぜんぜん読めなくって。少しでも延命する手を指してただけで……」
「それでも勝ちは勝ちだ。誇ればいい。それが勝者の務めだ」
桑原はそう言って、胸ポケットから封筒を取り出した。
「ほらよ。優勝おめでとう」
差し出された封筒を真菜がおずおずと受け取る。
優勝賞品のペアチケットが入っているのだろう。
「あと副賞ってわけじゃねえが、真菜ちゃん。これで二段だ。おめでとよ」
「へ?」
「ちょうど今の対局で昇段基準をクリアしてんだぜ」
そう言って桑原は壁に貼られているポスターを指さした。
そこには『二段:10連勝または14勝2敗』と書かれている。
「あ、えっと……」
真菜が指折り数える。
「そっか。今日だけで5勝1敗……。全然気にしてなかった」
「ここんとこ調子良かったみてえだしな。何年だ? 随分と初段で足踏みしてたけどよ、ようやくだな」
周りから拍手が沸き起こる。
双葉も小さく拍手をしていた。もう涙の跡は見えない。
「双葉ちゃんよ。勝ちを確信してからの負けってのは一番堪えるよな」
拍手が落ち着いたのを見計らい、桑原が双葉に声をかけた。
「将棋ってよ、残酷な競技だよなあ。自分から負けを宣言しなきゃなきゃ終わらねえなんてよ」
双葉は何も言わず、小さくうなずく。
「なんで負けたときに宣言するか、わかるか?」
双葉が首を横に振る。
周囲を見ても、みんな首をかしげている。
「それはな――強くなるためだよ」
「……はい」
「んで、これは準優勝の賞品な」
そう言って桑原は双葉に何かを手渡した。
チケットのようだが、手書きのように見える。
「道場入場無料券……と、指導対局券?」
「まあ気が向いたら使ってくれや」
「あ……ありがとうございます!」
道場内でまた拍手が沸いた。さっきよりも大きいくらいだ。
周りから「惜しかった」「良い将棋だった」と称賛の声が聞こえてくる。
拍手が鳴り止まぬなか、悟は桑原に耳打ちするように言った。
「……本当は二位の賞品なんて無かったんですよね」
桑原は少し驚いたように悟を見る。
「双葉が詰まそうとしてたとき、すぐに詰みがないって気付いて用意してくれたんですよね」
桑原はあの局面を見て勝敗の行方を確信したのだ。
あのとき急にいなくなったのは、きっと双葉に渡す賞品を準備するためだったのだろう。
「わざわざありがとうございます」
「……ほんと兄ちゃんは周りがよく見えてんなぁ」
苦笑いするように桑原が言う。
「真菜ちゃんは純粋に将棋を楽しんでるけどよ、ここ数年ずっと棋力は変わらんかった」
どうして真菜の話をするのだろうと不思議に思いつつ、悟は黙って話の続きを聞く。
「それがよ、絶対に勝ちたい相手がいるっつって特訓なんて始めてな。苦手だった角交換も克服して、新しい戦法まで覚えてよ」
悟のマンションで見た対局のことを思い出す。
たしかに真菜は言っていた。双葉に勝つために覚えたと。
「そういうことだ。この二人なら、この先もっと面白え将棋が観られる気がした。そんだけだよ」
そして桑原は煙草を咥えながら奥の方へ歩いて行った。
個人戦も団体戦と同じように表彰式などもなく、これで終わりらしい。
周囲を見回すと、いつのまにかそこかしこで対局が始まっていた。双葉と真菜の熱い戦いに触発されたのかもしれない。
双葉もいつの間にか知らないお爺さんと対局を始めている。
「あ、あの、先輩!」
気付くと真菜が横に立っていた。
さっき桑原からもらった封筒を握りしめている。
「こ、この、ペアチケット、なんです、けど……」
「おう。優勝おめでとう」
「え、えっと……せ、せっかくなので……」
「ん?」
「い、一緒に、行ってもいいですか!?」
きっぱりとそう言った真菜の顔は、さっきの双葉のように夕陽に朱く照らされていた。
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☗双葉の将棋格言講座☗
『金はとどめに残せ』
金は斜め後ろ以外全部に利く駒だから、玉を詰ますのに一番使いやすいんだよ。だからそれを最後にとっておくことが大事ってこと。
初心者が最初に覚える詰みの手筋で、玉の頭に金を打つ「
今回のペアチケットなんかも、それさえあれば玉を詰ませられそうなくらい大事な駒。
で、私がもらったのは、さしずめ銀って感じかな。二位ってところも含めて。
銀だとそのまま打っても横にスルっと逃げられるから「頭金」みたいに単純には使えないけど、局面によっては銀じゃないと詰ませられないってこともあるからね。
私はただそれを読むだけ。はっきり詰まされるまでは負けじゃない……から。
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