☖『大駒は近づけて受けよ』
人が涙を流すのは何故だろう。
音も無く零れ落ちる雫を見ながら、悟はそんなことを思った。
自分が最後に泣いたのはいつだったろうか。もう忘れてしまった。
二年前のあの日ですら涙は出なかった。
大粒の涙が数滴、真菜のスカートに落ちた。
ピンク色の生地が、その部分だけ濃く滲む。
悟はようやく我に返り、真菜におしぼりを渡した。
真菜は黙って受け取ってくれたが、もう少し落ち着くまでは声を掛けない方がいいだろうと悟は判断した。
スマートフォンの対局画面は既に真菜の投了となっていた。
預かった言葉は伝えなければならない。
『後輩から伝言。「ありません」と』
双葉にメッセージを送ると、すぐに既読が付き、お辞儀をする猫のスタンプが送られてきた。
そして『あそこの飛車打ちはやられたって思った』『でもそのあと桂馬を取ったのがよくなかったと思う』『ありがとうございました』『って伝えて』と、連続でメッセージが届く。
悟は少し悩んだあと『あとで伝えとく。いますごく悔しがってるよ。』と送った。
真菜に目を向けると、もう何もなかったように対局の履歴を見ていた。おそらく敗因を分析しているのだろう。よく見れば、まだ少し目が赤い。
真菜が目を伏せたまま、小さな声で言った。
「……すみません、恥ずかしいところを見せてしまって」
負けて、涙を流すくらいに悔しく思える。
きっと、だから強い。
「全然そんなことないよ。それだけ本気ってことだもんな」
悟の言葉を聞いた真菜は、はっとした顔を見せた。
「違う……違うんですよ……」
真菜が言葉を探すように、ぽつりぽつりと言った。
「私……将棋を指すときは眼鏡って、決めてるんです。コンタクトでずっと見続けると目が痛くなっちゃうから」
悟は何も言わず、黙ってうなずく。
「なのに……私は今日はコンタクトで来ちゃったんです。そういう差がはっきりと出たんです」
悟には真菜の言っている言葉の意味が分からず小さく首をかしげたが、真菜は構わず続ける。
「きっと双葉ちゃんは私と戦うために一週間ずっと努力をしてきた。あの指し方を見たら分かります。分かるんです。ちゃんと研究をしてくれたんだって。私に勝つために……。なのに私は……私は……」
内容は理解できなくても、伝わるものはある。
真菜は、ただ負けたことを悔しがっているのではない。
歯を食いしばっている真菜の表情から、悟にも痛いほどに伝わってきた。彼女のなかに渦巻く後悔に似た感情が。
だが、どんな言葉をかけるべきか悟にはわからなかった。
沈黙のなか、何度も悟のスマートフォンが震える。
どうせまた双葉からだろうと思いながらも、悟はメッセージを確認した。
そこでようやく思い至った。
いま必要なのは自分のような第三者の慰めではなく、死闘を繰り広げた相手からの言葉だ。
「南條。そんなに悔しいなら、またリベンジすればいいだろう?」
きっと、将棋で味わった悔しさは、将棋でしか晴らすことができない。
自分が納得できる将棋を指すことでしか。
「ほら、これ」
悟は真菜にスマートフォンを向け、双葉からのメッセージを見せた。
『さっそくサトルちゃんへのお願いを使う』
『マナさんともう一回対局したい』
『できれば今度は直接会って指したい』
『お願いします』
『って伝えてほしい』
真菜は何も言わず、静かに大きく息を吐いた。
そして、一言だけ。
「次は、負けません」
さっきまでとは別人のような、凛とした声だった。
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☖真菜の将棋格言講座☖
『大駒は近づけて受けよ』
“大駒”というのは飛車と角のことです。
終盤で王手をかけるときに使うことが多いと思うんですけど、相手が“大駒”を使うときは、自分の玉の近くに打たせればいいっていう格言です。
たとえば間に金を挟んだりすると、その“大駒”は一回逃げるしかなくなるんですよね。その一手を稼ぐのが終盤では紙一重の差になることもあるので、一手だからって馬鹿にはできません。
同じような格言で『大駒は離して打て』っていうのがあるんですけど、これは逆の立場から見た同じ内容ですね。
でも、一度“大駒”が逃げたとき、それは竜や馬になって戻ってきます。
その間に稼いだ一手で攻めるか、それとも守るか。
そこからが正念場ということですね。
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