☖『角には角』
大型書店の一角で悟は絶句した。
スマートフォンで検索しても教則本の内容がわからず、実際の中身を見て選ぼうと駅前にある書店に立ち寄ったはいいが、あまりの本の多さに悟は圧倒された。
様々な戦法が書かれた本が所狭しと並んでいるが、どれを選べばいいのかわからない。試しに「初心者向け」と
双葉はネット対局で初段になったと言っていた。やはり実戦が一番の勉強なのだろうか。だが、それだけであそこまで強くなれるものなのだろうか。
これだけ多くの戦法が存在するのであれば、何かしらの戦い方を身に付ける必要があるはずだ。だが、どの戦法を選ぶべきなのか。この初心者向けのものでいいのだろうか。だが、それで双葉に勝てるのか。戦法にも相性がありそうだし、それならば双葉に対抗できる戦い方がいいのではないか。いや、そもそも双葉の戦法がどういう名前なのかもわからない。
様々な疑問が悟の頭の中で浮かんでは消える。
「
悟が本棚の前で立ち尽くしていたとき、突然背後から声をかけられた。
自分の名前を呼ぶその声に振り返ったとき、そこには悟がよく見知った顔があった。
「やっぱり先輩だ! 奇遇っすね、こんなところで会うなんて! あ、そっか。この辺に住んでるんでしたっけ? あれ? 先輩、将棋やるんですか!? えー、早く言ってくださいよ、もー」
矢継ぎ早に言葉を投げかけるのは悟の会社の後輩である
真菜が新入社員の頃、悟は一年間トレーナーとして彼女の面倒を見てきた。悟が異動となり部署が変わった今でも、ときどき仕事で関わることがある。
だが、会社での真菜とは明らかに様子が違う。仕事中の真菜はあまり喋るタイプではなく、必要な業務連絡のみを端的に話す。ここまで興奮している真菜を見たのは初めてだった。
Tシャツにスニーカーというラフな服装も、普段のスーツ姿とのギャップが大きい。なによりアンダーリムの赤い眼鏡を掛けているせいで最初は誰だかわからなかった。普段はコンタクトレンズをつけているのだと、悟は初めて気付いた。
「あ、あんまり見ないでくださいよ……。まさか先輩に会うとは思わなくて、こんな格好なんで……」
真菜がショートボブの髪をいじりながら照れくさそうな素振りを見せる。
「ん? いや似合ってると思うけどな、その眼鏡」
「いや、眼鏡だけじゃないんですけど……まあ、いいや。あの、先輩、将棋の本見てましたよね! 将棋やるんすか!?」
「ああ、この前ちょっと親戚と対戦してボコボコにされたから、ちゃんと勉強しようと思って」
「対戦じゃなくて対局っす。でも、へえ……。前に私が誘ったときは全然興味なさそうだったのに」
真菜のトレーナーをしていたとき、そういえばそんな話をしたことがあったと悟は思い出した。真菜が珍しく趣味の話を振ってきたとき、特に趣味は無いと答えると、それなら将棋はどうかと真菜から強く勧められた。当時は全く関心がなく、自分には無理だと断った記憶がある。
「そっか。南條は将棋できるんだったっけか。……ちなみにどれくらい強いんだ?」
「えっと、通ってる道場だと初段で、スマホのアプリだと二段っすね」
「二段!? すごいな!」
「いやいや、まだまだっす」
十分強いはずなのに、双葉といい真菜といい謙遜するのはなぜだろう。将棋指しはそういうものなのか、と二人の共通点が悟にはおかしかった。
「そうだ、せっかくだから選んでくれないか。どういう本を読めばいいのかさっぱりわからなくてさ」
「んー、
「きりょく?」
「将棋の強さってことです。将棋の力ですね」
「ああ、初段とか二段とかってやつか。……どれくらいなんだろう」
「なるほど、そんな感じなんすね……。わかりました! 私がこれから測ってあげましょう! 先輩、いま時間大丈夫です?」
もちろん、と悟は大きくうなずく。会社とは全く違う後輩の態度が妙にむずがゆくもあるが、この助け舟は正直心強い。
「じゃあ、あそこのカフェに行きましょ」
真菜に促されるまま、書店に併設されているカフェに入る。夕食前の中途半端な時間のせいか、あまり客はいない。
そういえば誰かと喫茶店に来るのは久しぶりだ、と悟は懐かしさを覚えながら、壁際の席に腰を下ろした。
「じゃ、さっそくスマホに将棋のアプリを入れましょう。“将棋ウォーリアー”で検索したらすぐ出てきます」
注文を終えるや否や、真菜は楽しそうに悟へ言った。
真菜の指示に従い、悟はアプリケーションをダウンロードし、新規登録のボタンを押す。
「で、アカウント名を決めてここに入力するんです。ずっと使うんでちゃんとした名前の方がいいですよ」
「そう言われると悩むなあ。南條はなんて名前なんだ?」
「私ですか? “
なるほど、割と適当で大丈夫そうだな、と悟は安心した。
「“
「数字を入れてる人も多いですね。誕生日とか」
それも悪くないが、あまりしっくりこない。かといって、こんなところで悩んでいても仕方ない。早く将棋を指さなければ──ああ、そうだ。
ふと思いついたことを悟は真菜に質問した。
「将棋を指す人のこと、なんて言うんだ?」
「んー、最近だと“指す将”って言葉がありますね。自分では指さないけど観戦が趣味の人を“観る将”って言うんで、その対比みたいに使われてます」
「なるほど。じゃあ、これにしよう」
「……おお、いいっすね!」
悟のスマートフォンを覗き込みながら、真菜が嬉しそうな声を上げる。
“
こうして悟の“指す将”としての歩みが始まった。
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☖真菜の将棋格言講座☖
『角には角』
強い人って角の使い方が上手いんですよ。特に自陣の弱いところに打たれた場合は対処が大変っす。斜めにズバーって動けるから、自由勝手にやられちゃうんですよね。そんな角に対処するには、こちらも角を使うんです。相手の斜めのラインを同じ角で抑えて、しっかり受ける。これはそういう格言なんです。
まあ、私は角より飛車の方が好きなんですけどね。
先輩もそうじゃないですか? 角って頭が弱点だから扱いに気を付けないといけないし、使いこなすのも難しいし。
それに比べて飛車は縦横だからシンプル! ほら、上手く飛車を
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