☖『居玉は避けよ』

 いよいよ桑原の道場で開催される大会の日がやってきた。

 大会では悟たちにとって嬉しい誤算が二つあった。


「言ってなかったが、優勝チームにはコレをやるよ。貰いもんだけどよ、わけぇ奴らはこういうの好きだろ」


 そう言って桑原が掲げたのは水族館の入場チケット三人分だった。

 予想外の優勝賞品に、双葉と真菜のテンションは大きく上がった。


 そしてもう一つは大会の参加者。真菜が言うには、この道場でトップレベルの人たちが今日の大会には参加していないらしい。

 高段者が参加していない理由を聞いた真菜に対して、桑原がこんなことを言っていた。


「こういうノリが苦手なヤツもけっこういるからな。ま、しゃーねえ」


 そう言って指をさした先には、二十人くらいの人だかりができており、壁に貼られたトーナメント表を見ながら盛り上がっている。中には高校生くらいと思われる若いグループもいた。


 真剣勝負という緊張感だけではなく、お祭りのような高揚感も会場に漂っている。

 そう思うと悟の頬は自然に緩んだ。不思議と朝から感じていた緊張がほぐれていく。


「ここにいる全員が……将棋を指すためだけに集まってるんだよな」


 わいわいと賑やかな集団を見て、悟が呟く。


「うまく言えないけど……なんか、いいな」


 双葉も真菜も、何も言わずに小さくうなずいた。きっと二人も同じようなことを感じているのだろう。言葉に出来ないのがもどかしい。


 人だかりが減ったのを見計らってトーナメント表に近づきながら真菜が言った。


「全部で8チームですね。三回勝てば優勝っすよ!」


 大将の名前がそのままチーム名になっているらしく、悟たちのところには“マナチーム”と大きく書かれ、その下に小さく三人の名前が載っていた。先週の特訓で勝率が高い人を大将にすると決めていたので、大将は真菜、副将は双葉、そして三将が悟となっている。


「えっと、初戦の相手は……“シゲチーム”だって。南條、知ってるか?」


「あー、シゲさんたちかー。常連のなかでも手強い相手っすね。大将のシゲさんは二段、副将のマサさんは初段です。三将のサブローさんはたしか3級、だったかな」


「……それ、完全に勝ちにきてるよな」


 二段の+2、初段の+1、3級の-3で換算なので、チームの合計がちょうどゼロになる。

 おそらく本気で優勝を狙うため、レートを調整してチームを組んだのだろう。


「サトルちゃんは5級だから、2級差……落ちだね。隙あらば端攻はしぜめだよ、端攻め」


「私たちは平手ひらてだね。頑張ろ、双葉ちゃん! んで、優勝して水族館に行こう!」


 双葉と真菜が顔を見合わせ、力強くうなずく。

 二人とも、そんなに水族館が好きなのだろうか。

 

「うーし、んじゃ始めんぞ。第一対局の“シゲチーム”と“マナチーム”はこっち座れ。第二対局の――」


 桑原の案内に従って左から真菜・双葉・悟の順に並んで座り、相手チームが来るのを待つ。


「なんか部活みたいでワクワクするっすね」


「そうだな。なんだか懐かしい感じがする」


「そういや双葉ちゃんは何か部活動はやってないの?」


「特になにも。将棋部があれば入ってみたいんですけどね」


「そっかー。あ、シゲさん、マサさん、サブローさん! こんちは! 今日はお手柔らかにね」


 ようやく悟たちの相手もそろったようで、真菜と挨拶を交わしながら向かいの席に腰を下ろした。

 三人とも、おそらく定年を過ぎたくらいの年齢と思われるお爺さんたちだ。

 悟の前に座ったのは、三人のなかでは一番ふくよかな体型で、まさに好々爺こうこうやといった雰囲気を持つ人だった。


「よろしくお願いします」


「ああ、よろしく」


 相手は自分と同じ級位者ということだし、きっとやりやすいだろう。

 そんな悟の甘い思惑は、対局開始早々に崩れ去った。


 先手番の相手は、悟から見て一番右側のを突いた。

 初手の端歩はしふ

 悟が初めて見る手だった。


 戸惑いつつも、悟はいつも通りまずは道を開けた。

 すかさず相手はを真ん中に振る。


「中飛車、ですか」


 を中央に振り、そこから攻める“振り飛車”の戦法だ。

 悟の問いかけに、相手は特に反応を示さず、さらに先である中央のを伸ばしてきた。

 くらいを取られると攻撃の拠点にされるので良くない、と以前真菜から習ったことを思い出し、悟も中央の歩を突きだして牽制をする。

 すると、相手のが初手で進めたの場所に移動した。


「……端に?」


 悟がを何度か突けば、そのを取れる位置だ。だが、まずはに成られないようにガードをしなければならない。

 悟がで守ると、それに合わせたように相手は先にを上げてきた。“棒銀”と同じようにを補助する役割だろう。そう判断した悟は、中央を手厚く守るため、に加えても守りに回した。

 これでこの戦場に絡む駒の数は同じ。こうなったら戦いを仕掛けた方が不利になる。

 しばらくは膠着状態が続くだろうから、その間にを囲おう。


 そう思った矢先、相手はさらに中央のを突き、悟のにぶつけてきた。

 これは取るしかない。悟はを取り、相手もを取り返す。そして悟はを打ち込んで守りを固める。これで相手のは引くしかない。


 だが、相手の指が動かしたのは、端にあるだった。

 悟の守備陣のなかにを突撃させ、を取った。当然、悟はを取る。の交換で、悟が駒得をしたことになる。

 だが、相手は意に介さず、さらにを直進させた。


「あ……これをで取ると……が来る……。逃げると……さっきの銀を打たれる……でも取らないと……」


 無意識のうちに思考が口に出る。

 考えれば考えるほど、まずい状況に追い込まれていることを実感する。

 お互いのは一歩も動いていないのに、既に終盤戦のような局面になっている。


 これまで対局で負けた経験は数多くあったが、こんなに重苦しい思いをするのは初めてだった。

 双葉の攻めとも、真菜の攻めとも違う。一見、乱暴な攻め方。自分には見えない大きな武器で殴られているような。

 奇襲戦法をくらってしまったのだと、悟はようやく気付いた。


 これはもう負けだ。

 思考を止め、駒を動かそうとしたとき。


 ――将棋は対話だぜ。目の前の相手を理解せずに勝っても楽しくねえだろ。


 ふと、桑原に言われた言葉が浮かんだ。


 ……そうだ、まだ時間はある。

 どうせ負けるにしても、ちゃんと考えて、ちゃんと見て、ちゃんと指して。

 それから負けよう。


 ゆっくりと深呼吸をして、顔を上げる。

 相手の顔をしっかりと見る。

 

 目の前の相手は二つ隣の盤を眺めていた。

 真菜の盤面を意識している? 


 そういえばこの人、前に来たときも見たことがある。

 ああ、そうだ。真菜にチームを組もうと持ち掛けていた人だ。

 

 ……そうか。本当は真菜とチームを組みたかったのにそれが叶わず、しかも真菜と組んでいるのは新参者の自分で、さらには将棋を始めたばかりの初心者だ。

 その憤りを将棋にぶつけているのかもしれない。

 なら……まずはそれを受け止めよう。


 悟はを振り、相手のの筋にぶつけた。後ろにはが控えている背水の陣。真っ向からの体当たりだ。


 目の前の相手――サブローがはっとした顔で悟を見る。きっと予想外の手だったのだろう。

 今からでも遅くない。をしよう。


 そこからは一進一退の中盤戦が続いた。

 奇襲戦法の定跡の範囲から抜けたのか、中盤に入るとサブローの厳しい攻めは完全に止まり、互角の駒の取り合いとなった。

 そしてほどなくして終盤に入り、お互いのに狙いを定め始める。


 悟は30秒ほど持ち時間を使い、じっくりと考える。

 そして一つの攻め筋を見つけた。


 初対面でいきなり相手の陣地に入っても追い出されるだけだ。新参者は新参者らしく、まずはで挨拶をして。

 そして相手が一旦拒否しても構わずもう一度を打って。

 さらに三顧の礼のようにを垂らす。

 真菜に教わった手筋だ。

 そうして出来たは価値の高い攻めの起点になる。


「……兄ちゃん、真菜ちゃんの上司なんだって?」


 攻めの手を進めていると、突然サブローが口を開いた。

 最初に悟が受けた印象のような、優しい声だった。


「あ、上司というか同僚です。少しだけ俺の方が入社早いですけど」


「そうか。……真菜ちゃんはね、高校生の頃からずっとここに通ってるけどさ、最近は特に楽しそうなんだよ。会社の人に将棋教えてるって嬉しそうに言っててね」


 会話をしてくれるのは嬉しいが、指さなくていいのだろうか。サブローの持ち時間は自分より残っているとはいえ、そこまで悠長に話す余裕はないはずだ。


「兄ちゃんのことだろう? 真菜ちゃんはさ、ワシらにとっちゃ可愛い孫娘みたいなもんだからさ。もし泣かせたりしたら承知しないよ」


「あ、いや、別にそういう関係ではないんですが……」


 真菜に聞こえてないだろうかと心配になったが、道場内の喧騒でおそらく耳には届いていない。


「細かいことはいいんだよ。真菜ちゃんを泣かせない。それだけの話なんだから」


「えっと……はい」


「うん、それでいい。……負けました。兄ちゃんの勝ちだよ」


 勝った、のか。

 サブローがにっこりと笑い、張りつめていた空気が一気に緩む。

 

「あの……俺は、稗村悟って言います」


 いまさら自己紹介をしていなかったことに気付き、サブローの顔を見て名乗る。


「よかったら名前を……教えてもらえますか」


「うん、前島三郎。サブローでいいよ」


「ありがとうございます、サブローさん。まだ他の対局は時間かかりそうなんで、その間に最初の攻め方、どういうやつか教えてくれませんか」


「ああ、端角中飛車な。悪いね、奇襲かけさせてもらったよ。あれでイケたと思ったんだけどなあ」


「ほんと、もう負けたと思いましたよ」


 今回の対局を経て、これまでとは違う手応えのようなものを感じていた。

 将棋に勝ったというより、何か大事なものを思い出したような。

 悟はそんな充実感に包まれていた。



・・・・ ・ ・・・・・・………─────────────………・・・・・・ ・ ・・・・


 

 ☖真菜の将棋格言講座☖


 『居玉いぎょくは避けよ』


 “居玉”っていうのは、が最初の位置のままに留まることです。真ん中の一番下の場所ですね。この位置に居たままだと、に囲まれて安全かと思いきや、王手飛車だとかの大技をかけられる危険性が高いんですよ。

 なので、できるだけ最初の方にを動かして、できれば“囲い”を作っちゃうと詰まされにくいってことです。

 もし攻めの方を重視するにしても、一段だけを上げておくだけでも安全性は全然違うので、そこは意識しておくといいですよ。


 自分がほんのちょっと動くだけで、景色が大きく変わる。

 人も、将棋も、そういうものかもしれませんね。なんてね。

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