☗『桂馬の高飛び、歩の餌食』
悟はサブローと感想戦を行ったあと、双葉や真菜の勝負の行方を見守っていた。
大将のシゲは二段、副将のマサは初段ということで、どちらも有段者同士の戦いだ。局面は複雑でどちらが優勢なのかすぐには分からなかったが、相手の顔色や仕草から読み取ると真菜や双葉の方に
その矢先、双葉の対局相手のマサが頭を下げた。双葉は深く息を吐きマサに礼を述べる。
双葉は悟の視線に気づき、指でVサインを作った。悟も小さく同じVサインで返すと、双葉は声を出さずに「マジで?」と驚く。隣で戦っている真菜の邪魔にならないよう気を遣っているのだろう。
残されたのは大将戦のみ。四人の目線は真菜とシゲの戦いに注がれる。
局面はかなりの乱戦となっていた。玉の位置から察するに“居飛車”対“振り飛車”の対抗型だったのだろう。真菜の玉は崩れかけた“穴熊囲い”の奥に隠れ、シゲの玉は単体で逃げ回っている。どちらもすぐに詰みそうだが、きっと緩い攻めを指した瞬間にカウンターを食らう。攻めと守りのバランス。綱渡りのような駆け引きが盤上で行われている。
お互いに持ち時間を使い切り、一手指すごとに増える5秒間だけを頼りにしなければならない。だがその時間の使い方は対照的だった。シゲは一手ごとに5秒を使うのに対して、真菜はノータイムで指すこともあれば、貯金してきた時間を全て使うこともあった。そして、その差が勝敗に結びついたのかもしれない。
「真菜ちゃん、ほんと強くなったな。……オレの負けだよ」
シゲの言葉で会場が湧いた。他のチームの対局もほぼ終わっていたらしく、いつのまにか周りにはギャラリーができていた。
真菜が我に返ったようにこちらに顔を向けたので、悟と双葉はまた小さくVサインを出した。
「おお、全員勝ったんすね! やったあ!」
おい、真菜ちゃんとこ強えぞ。
ああ、あの穴熊の暴力はえぐいな。
副将のお嬢ちゃんも強いんだって。
腰掛け銀だろ、角交換したらペース握られるぞ。
ざわめきのなかから、そんな声が聞こえてくる。自分のことに全く触れられないのは少し寂しかったが、二人が褒められているのは嬉しかった。
そのなかで面白いキーワードが耳に入ってきた。
――さしずめ、“振り穴王女”と“腰掛け姫”ってとこだな。
その単語は双葉と真菜の耳にも届いたらしい。
二人が席を立ちながら小さく呟く。
「……私も姫がいいんですけど」
「腰掛けって……なんかヤダな」
そんな文句を言いつつ、二人の口元は緩い。
意外と満更でもなさそうだ。
「うーし、んじゃ二回戦は10分後に開始な」
桑原の声掛けが道場に響く。
三人は対局相手にお礼を述べたあと、次の対局相手を確認するため、壁に貼られているトーナメント表を見に行った。
「二回戦は……巴チーム。マナさん、知ってます? 大将は巴さん、副将は小笠原さん、三将は九条さん、ですって」
「ぜんぜん知らない人たちだ。私、けっこう古株のつもりなんだけどなぁ。もしかしたら平日にだけ来てる人かも」
「あ、それ僕たちです」
聞き慣れない声に振り向くと、若い男女が立っていた。高校生くらいだろうか。
「大将の
そう挨拶をしたのは、先頭に立っている男子だった。眼鏡をかけて髪をぴっちりとセンター分けに整えている。
「オレは副将の
「あ、あの……九条
「オレたち高校の将棋部で、週に2~3回放課後に来て桑原さんに指導してもらってるんですよ」
巴とは対照的に、茶色に染めた髪を短く刈り込んだ小笠原は活発な印象を受ける。
そして控えめな声で挨拶を交わす九条は、二人の後ろで伏し目がちに様子を伺っている。二つ結びにしているおさげのせいか、歳の割に幼く見える。
「へえ、そっか。初めましてだね。私は南條真菜。高校生のときからここに通ってるから一緒だね」
真菜に続き、悟と双葉も自己紹介を行う。
「僕は初段、慧人は1級、伽耶は4級なので、南條さんのチームと同じような棋力の編成ですね。お手柔らかにお願いします」
こちらの棋力を完全に把握している発言だ。和やかにしてはいるが、決して油断はできない。
そして休憩時間が終わり、二回戦が始まった。
悟の相手の九条は4級で、悟とは1級差しかないため駒落ちは無く、悟が先手番をもらうだけとなる。ネット対局以外では、久しぶりの
初手で悟が飛車の前の歩を突くと、相手も同じく飛車先の歩を突いてきた。
ということは“相がかり系”の戦いになる。“相がかり”は、お互いに激しく攻め合う乱戦系の将棋だ、と双葉が以前言っていた。望むところ、と悟はさらに歩を進める。
お互い飛車先の歩を取り合ったあと、九条は玉に手を伸ばした。
ここでひとまず“囲い”を作るのか。なら自分もそうしよう。
そう思った瞬間、悟は見間違えたかと目を疑った。
伽耶の玉が飛車の方へ寄った。
飛車と逆の方向に玉を逃がすのが基本のはずだ。相手の意図がまったく読めない。
さらに九条は桂馬を跳ばせたあと、歩の壁の上で飛車を振ってきた。
「え?」
つい声が出てしまった。
なんだこれは。さっきまで“居飛車”だったはずなのに、いつのまにか“振り飛車”になっている。
「……“ひねり飛車”って言うらしいです、この戦法」
悟の戸惑いを察したのか、九条が教えてくれた。
「俺、初めて見たよ。けっこう珍しいんじゃない?」
悟の問いかけに、九条は小さくうなずいた。
「……巴くんは“振り飛車”がおすすめって言うし、小笠原くんは“居飛車”の方が良いって言うし……。私、選べなくって」
悟は隣の盤面に目を移した。たしかに真菜と戦っている巴は振り飛車――“三間飛車”で、双葉と戦っている小笠原は居飛車――“右四間飛車”を使っている。
「だから、自分で見つけたんです。これなら両方の要素があるかなって」
「なるほど……」
将棋は論理を積み重ねるゲームだ。そこに感情的なものが入る余地など無い。
でも、将棋を指すのは人間だ。
無数の選択肢のなかから何を選ぶのか。そこには嗜好や気分、場合によっては無意識的なものすら反映されるのかもしれない。
本当に奥が深い。
将棋も、人も。
「……人?」
口にしたつもりは無かったが、言葉に出ていたらしい。九条が不思議そうに悟を見る。
そして、そんな九条の様子を隣に座っている巴や小笠原が意識していることも、悟には感じ取れた。
この三人の関係性が九条の戦法として表れている。なぜかそんな気がした。
「ん、なんでもないよ。じゃあ俺は」
悟はひとまず飛車を無視して歩を突いた。
今から“振り飛車”用の“囲い”に作り直してもおそらく間に合わない。なにより、自分にそんな器用なことは出来ない。
悟はそう判断し、自分から攻めることに切り替えた。とにかく狙うのは翔んだ桂馬の頭だ。相手の陣形の弱い箇所を狙うのが攻めの基本。双葉から習ったコツを実直に行う。
「……稗村さん、でしたよね。思い切りがいいんですね」
桂馬の頭を守るための銀を押し上げながら、感心するように九条が言った。
「うん。今の自分に出来ないことを無理にやろうとしても、きっといい結果にはならないからね」
「……そう、ですよね」
控えめな会話とは裏腹に、盤面では激しい駒の取り合いが進んでいく。
序盤こそ翻弄されたものの、中盤戦は悟が終始リードした。桂馬を奪ったのを皮切りに、飛車や銀が敵陣を突破する。
終盤戦は九条も苦手なのか、お互いの刃はなかなか喉元に届かず、じっくりとした戦いとなった。持ち時間が残りわずかになるなか、悟は先ほどの真菜の戦い方を参考にすることにした。すぐに指すときと、考えるときのメリハリをつける。そうすることで使える時間を貯め、重要そうな場面で時間を使って読みを入れる。詰められそうな局面が来たとき、それを見逃さないように気を張った。
そうして勝負を制したのは、悟だった。
「負けました……」
九条が頭を下げ、二つのおさげが揺れる。
「でも……平手戦でこんなに接戦だったの、私初めてです。とっても……楽しかった、です」
「俺も楽しかったよ。また機会があれば指そうね」
「ぜひ……あっ」
思い出したように九条が横を振り向く。
他の二人の対局がどうなっているのか、熱中のあまり悟の頭からも消えていた。
自分が勝てたので、双葉か真菜のどちらかが勝ちさえすれば決勝戦に進むことができる。
既にどちらの対局も終わっていたらしく、四人ともこちらを見ていた。
だが、その顔色はあまりにも対照的だった。
「惜しかったな九条。一手差だったな」
「いい勝負だったよ、九条さん。次も頑張ろう」
巴と小笠原が九条に優しく声をかける。
次も――その巴の言葉で悟は察した。
「……ごめん、サトルちゃん」
「先輩、すみません……負けました」
双葉も真菜も、口を真一文字に引き締め、絞り出すように言った。
二人とも、泣くのを必死で堪えているような悲痛な面持ちだった。
別に謝る必要なんてない。
そんな悟の言葉は、喧騒のなかに空しく消えた。
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☗双葉の将棋格言講座☗
『桂馬の高跳び、歩の餌食』
桂馬ってぽんぽん跳べるからつい動かしたくなるけど、無暗に前に出るとすぐ歩で取られちゃうのよね。
『攻めは飛角銀桂』っていうのが基本ではあるけど、最初のうちは桂馬を動かすのは最後、くらいに考えた方がいいと思うよ。
桂馬はチェスのナイトと違って、横や後ろに移動できないからね。頭に歩を打たれただけで取られちゃう。
大事なのは、ちゃんと考えて、じっくり動かすこと。考えなしに跳ばせたら、あっけなく取られておしまい。
これって桂馬だけじゃないよね。調子乗ってたら足元をすくわれるってのは、ほんとまさにって感じ……。はあ……。
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