終盤戦
【手番】悟
☗『終盤は駒の損得より速度』
目の前の相手のことを見ようとしていない。
真菜に連れて行ってもらった道場で、桑原から言われたことがずっと悟の中で引っかかっていた。
言われてみればその通りかもしれない。
きっと他人が怖いのだ。他人の心を知ることが。
何年間も一緒に過ごしても、本心では何を考えているのか分からない。突然、別れを告げられることだってある。
それなら最初から何も見なくてもいいんじゃないか。表面的な付き合いだとしても、それで十分じゃないのか。
思えばあれからずっとそう考えて過ごしていた。そうやって割り切ることで、心の平穏を手に入れたと思っていた。
でも……将棋はそれを許してくれないらしい。
相手が何を考えているのか、何をしようとしているのか。必死で考えなければ勝つことはできない。
ここは一人で籠もっていれば済むような気楽な世界じゃない。
盤を挟んだのなら、お前も腹を括るしかないんだ。
買ったばかりの駒から、そう言われているような気がした。
「――ねえ、サトルちゃん? なにぼーっとしてんの? 交代だよ」
「さあ私が相手っすよ、先輩」
考え事に耽っていた悟に向けて、双葉と真菜が声をかけた。
双葉が席を立ち、悟の背中を押す。
来週に迫っている大会は“フィッシャールール”という変わった制度で行われる。それに慣れるために特訓をしたいという双葉の申し出を受け、週末に再び三人で悟のマンションに集まった。
対局で負けた方が交代して延々と指し続ける、といったルールを決めて朝からずっと指し続けている。こと将棋に関するとなると、双葉と真菜の集中力はすさまじい。
「これ、序盤でどれだけ時間を稼げるかがキモになるよな」
歩を突いて悟がチェスクロックを押す。
「そうっすね。中盤から終盤に考える時間を残さないといけませんから、自分の中で序盤の定跡はパターン化しておくのがいいですね。相手が居飛車ならこう、振り飛車ならこう、角交換してきたらこう、みたいに」
“フィッシャールール”は、設定された持ち時間に加えて一手指すごとに一定の時間が増える、という仕組みだ。
桑原の大会では、持ち時間5分で一手指すごとに5秒追加というルール設定のため、もし100手で終了する場合は持ち時間は約9分の計算となる。
「それに終盤で時間がなくなったときは5秒で冷静に指せなきゃいけませんからね。なかなか大変ですよ」
「指してからチェスクロックを押すまでのタイムラグもあるし、5秒フルに考えられるわけじゃないよな。前もって感覚が掴めてよかったよ」
どれだけ定跡を身に付けているかの知識力。
どこで読みの時間を使うかの判断力。
そして最後まで詰めるための瞬発力。
そんな様々な力が求められるルールだ。あの桑原が採用しただけのことはある。
「……負けました」
「よっし四連勝!」
「サトルちゃん、交代! 次は負けない!」
「ふっふ。かかってらっしゃい」
負けた悟が双葉に席を代わる。
飛車を落としてもらっているのに全く太刀打ちできない。
真菜も双葉も以前よりずっと強くなっている。
駒を並べ、お辞儀をする二人を横から眺め、戦いを観察する。
双葉は守りよりも攻める準備を優先した駒組みをする。自分から攻撃を仕掛け、多少駒を取られても、意に介さずに相手の陣地に攻め込んでいく。
真菜はまず相手に攻めさせて、きっちりと受け止める。そして相手の隙を突き、いつのまにか攻守が逆転している。
二人の対局を見ているうちに、いわゆる“棋風”と呼ばれるものがどういうものなのか理解はできた。
だが、それはまだ表面的な性格を知っただけであり、その奥の思考までを捉えられているわけではない。そして思考を汲み取るためには、相手のことを深く理解しなければならない。
それができないうちは、きっと二人に追い付くことはできないのだろう。
「あー負けたあ……。最後まさか竜も馬も切ってくるとは……ほんと思い切りがいいねえ」
「終盤は損得考えても仕方ないですしね。でも、最後こっちに逃げられてたらどうしようか迷うところでした」
「そっか。ここは受けずに逃げるとこだったね。妙に意地張っちゃったな」
「さあ次は私が相手だよ、サトルちゃん」
「じゃ、私ちょっとお手洗いお借りしますね」
真菜がポーチを持って席を外した。
さっきまで真菜が座っていた席に悟が座り、双葉と向かい合う。
悟は少し迷ったが、聞いてみることにした。
「なあ、双葉。対局のときって、どんなこと考えてる?」
「んー、次どういう手でいこうかとか相手がどうくるかなとか、普通はそんな感じでしょ」
駒を並べながら双葉が答えてくれる。
「ならさ、たとえば俺が相手のときと南條が相手のときだと、考えることって変わるか?」
「そりゃまあ、マナさんならこういう風にやってきそうだなとか、そういうことは考えるけど。なんで?」
「桑原さんにさ、俺は相手のことを見ようとしてないんじゃないかって言われてさ」
「あー、言われてたね。……まあ、そういうとこ、ちょっとはあるかもね」
「どうすりゃ相手のこと、分かるんだろう」
漠然とした質問だったが、双葉は真剣な目をして考えてくれている。
そして、少し時間を置いてこう言った。
「ん、じゃあさ……いま、私が何を考えてるか、わかる?」
双葉の大きな黒い瞳が悟に向けられる。
その視線の強さに、つい目を逸らしてしまいそうになる。
「……お腹空いた、とか? って、痛い」
双葉が悟の頬をつねった。
まるで駒を裏返すように、親指と中指でつまみ上げる。
「なんで!?」
「外した罰」
いまいち腑に落ちない悟に向けて、双葉が目を伏せて小さく呟いた。
「でも……サトルちゃんがどれだけ鈍くっても、本当に大事なことはいつかきっと相手が伝えてくるだろうからさ」
それを楽しみにしとくのもいいんじゃない。
そんな言葉とともに、双葉は駒を進めた。
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☗双葉の将棋格言講座☗
『終盤は駒の損得より速度』
中盤までは駒の損得をちゃんと計算して、相手より少しでも有利になることが大事だけど、終盤は意識して考え方を変えないとダメってこと。将棋の目的は手駒を増やすことじゃなくって、相手の玉を詰ませることだからね。
たとえば相手の玉を守ってる金や銀を取ろうと手数をかけてる間に、逆に相手に詰まされちゃう、みたいなこともよくあるから。そういう手数をかけさせるために“囲い”ってあるわけ。
前にさ、好きな相手と付き合いたいときはまず外堀を埋める、みたいなたとえ話をしたじゃん。覚えてる? 『玉は包むように寄せよ』の話だったかな。
それで言うとさ、外堀を埋めるのにあんまり時間をかけすぎると、その間に他の人に取られちゃうって感じかな。いくら相手と仲良くなったって、その隙に別の人と付き合われちゃったら負けでしょ。
そういう準備と速度のバランス。ほんっと、難しいよね……。
え、そういう相手がいるのかって? いや、もちろん将棋の話だよ。当たり前でしょ、何言ってんの、馬鹿じゃないの、もう。
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