中盤戦
【手番】悟
☗『浮き駒に手あり』
今でもたまに夢を見る。
あの日、突然別れを告げられた日のことを。
「好きな人ができたから」
彼女の目を見れば、それが本気であることはすぐに分かった。
それ以上は何も聞かないでいる自分に「そういうところだよ」と捨て台詞を吐いて、彼女は出て行った。
大学生の頃からの付き合いだった。
たまたま同じ授業で知り合い、どちらからともなく付き合い始めた。
社会人になってからは同棲も始めた。
だが、その約三年後、彼女は突然別れを切り出した。
自分にも何か悪いところがあったのだろう。
その夜、ひたすら自問自答を繰り返したが、ある瞬間に気付いた。
そんなことを考える意味も、もう無い。全て終わったのだから。
考えることもできず、眠ることもできず、ただ敗北感に似た何かに覆い尽くされる。
息が詰まりそうな部屋を出て、あてもなく外に出かけた。
終電はとっくに過ぎ、人の気配はしない。
煙草をコンビニで買い、近所の公園のベンチに座って無理矢理に煙を肺へと押し込める。
学生時代に一度だけ試しに吸って以来の煙草は、ただ息苦しさを助長するだけだった。
それでも数時間かけて箱を空にした。
煙草の入っていない空箱を見たとき、自分の中身も空になってしまったように感じた。
解放感にも似た空虚な清々しさを自覚した瞬間、自分が世界のどこにも関わりのない宙ぶらりんの存在であるように思えた。
あれから二年が経つ。
それでも、その日の夢を見た朝は、あのときの煙草の味と憂鬱な浮遊感が鮮明に蘇る。
「他の駒と紐づいていない駒を、“浮き駒”って言うんすよ」
ふと、少し前に真菜から習ったことを思い出した。
どの駒とも繋がっていない離れた駒は、相手からすると格好の獲物だと。
まさに俺がそうだ。
宙ぶらりんの駒。宙ぶらりんの自分。
ここ数年は仕事だけをしてきた。
残ったマンションのローンを払うことが、幸いにも仕事のモチベーションに繋がっていた。もしマンションを買っていなかったら、仕事すら辞めてしまっていたかもしれない。
だが、仕事以外のことは何もする気が起きなかった。何かしらの言い訳をして、帰省すらしていなかった。
それなのに。
気まぐれで地元に戻り、双葉と将棋を指したあの日から、何かが自分という箱の中に入った気がした。
いや、違う。入っていたことを思い出したのだ。その中身に火を付けられたから、否応なしに。
テーブルに置いてある二冊の詰将棋の本を指でなぞる。
真菜がくれたものと、双葉が貸してくれたもの。双葉から借りた方は、まだ自分には難しい。
寝る前に読んでいた本の続きを開き、日課となった詰将棋を解く。
双葉と真菜は、何かに熱中することの心地良さを思い出させてくれた。
いつか二人に恩返しをしたい。
悟はそう思いながら、ページを巡った。
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☗双葉の将棋格言講座☗
『浮き駒に手あり』
“浮き駒”っていうのは、どの駒からも守られてない駒のこと。他の駒に“紐づいてない”って言ったりもするね。要するに、一人でふらふらしてる無防備な駒を見つけて、そこを突くのが良いっていう格言。
なんでもいいから、使ってる“囲い”をちゃんと見るとよくわかるよ。“囲い”っていうのは、ただ玉の周りに駒を集めるんじゃなくて、お互いに紐づけることで守り合ってる形だから。
とはいえ急に攻められて、どうしても“浮き駒”が狙われるときもあるよね。
そういうときは、その駒を動かして他の駒に紐づけるか、どうしても動けない場合は他の駒をその近くに打てばいいんだよ。打った駒も、その“浮き駒”に支えられて、お互いに支え合えるからね。
……それはきっと、人だって同じだよ。だから、サトルちゃんも……ううん、なんでもない。
とにかく“浮き駒”はダメ! それだけ覚えておけばいいの!
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