☗『端歩は心の余裕』

「ほら、出来たぞー」


「おお、美味しそう!」


 悟が持ってきた鍋を見て、真菜が感嘆の声をあげた。

 鶏肉、白菜、豆腐、ネギ、しめじ等が綺麗に並べられており、湯気とともに伝わる温かな出汁の香りが食欲をそそる。


 デスティニーランドのお土産のお礼として悟が夕飯を奢ってくれると言うので、双葉は真菜と無言の意思疎通を図り、悟の家で鍋パーティーを開くこととなった。

 真菜が全く料理をできないことは計算外ではあったが、悟が手際よく調理を済ませ、あっという間に美味しそうな水炊き鍋が出来上がった。


「それじゃ、いただきます」


 ダーツで身体を動かしたせいか、いつもより特に美味しく感じる。

 それとも悟の料理の腕が良いのだろうか。

 

「あったかい鍋食べてると、冷たいビール欲しくなりますねー」


 真菜が白菜を頬張りながら言った。


「ああ、ビールなら冷蔵庫に少しあるぞ」


「あれ? 先輩、飲めないんじゃ?」


「んー、どうしても眠れないときとかにちょっと飲んだりしてたから」


 眠れない夜。悟にもそんなことがあるのか。


「でも最近は全然飲むこともないし、飲みたかったら飲んでくれていいぞ」


「それなら遠慮なくいただきますね」


「……サトルちゃん、お酒弱いんだっけ」


「弱いっていうか、すぐ眠くなるんだよ。酒自体は嫌いじゃないんだけどな」


「そうそう、私の歓迎会のときでしたっけ。幹事の先輩が居酒屋で寝ちゃって大変だったんすよね」


「いや、あれは課長が俺のウーロン茶をウーロンハイとすり替えたんだよ」 


「あはは、そうだったんすか」


 自分の知らない悟の一面を知るのは楽しくもあり、寂しくもある。

 

「ぷはあ。やっぱ鍋にはビールですよね!」


 グラスを傾け、真菜が心底幸せそうな顔を見せる。

 双葉には全く理解できないが、よほど美味しいらしい。


「……せっかくだから俺も少しもらおうかな。ほんの少しな」


「お、どうぞどうぞ」


 真菜の美味しそうな顔につられたらしい。


「でも……考えてみたら不思議ですよね」


 真菜が缶ビールを悟のグラスに注ぎながら、ぽつりと言った。


「こうやって三人で同じ鍋をつつくなんて」


 たしかに真菜の言う通りだ。ほんの数ヶ月前まで全く知らないもの同士だったのに、悟を通した“将棋”という縁だけで、今ここにいる。


「はい、ここで一つクイズです。先輩、双葉ちゃん。将棋の実現可能な局面の数って、どれくらいあるかわかりますか?」


「んん……考えたこともないなぁ」


「ええと、無限大……ってことはないか。すごくたくさん、としか分かんないです」


「答えは、だいたい10の68乗から69乗、なんですって」


「全然想像つかないですね」


「ね。宇宙に存在する原子の数が10の80乗くらいらしいから、それよりは少ない感じ」


 途方もなさ過ぎて余計に想像がつかない。


「面白いのが、漢字で表す一番大きな数を無量大数むりょうたいすうって言うんですけど、それがちょうど10の68乗なんですよ」


 無量大数。

 数字の桁を表す言葉として、数学の教科書のどこかでそんな名前を見た気がする。


「“無量大数よりも少し多いくらい”っていうのが一番カッコいい答えですね」


 なるほど。たしかに格好いい。


「だから対局中に出会う局面っていうのは、それだけの数があるうちのたった一つってことなんです。将棋の局面は一期一会なんですよ!」


 真菜が空になったグラスを握り、そう力説する。


「あ、それって……現実も同じ、ですよね」


 これまでずっとぼんやりと考えていたこと。

 それが、真菜の話を聞いて形になった気がする。


「もし、私がサトルちゃんと将棋をしていなかったら……」


 今となってはもう想像もできない。


「もし、サトルちゃんがマナさんに将棋を教わってなかったら……」


 けれど、そんな未来もあったのかもしれない。


「こうやって三人でお鍋を食べる日なんて、きっと来なかったでしょうね」


「双葉ちゃん……」


「…………すぅ」


「って、先輩寝てる! うそでしょ!? 私達がせっかくいい話してたのに!」


「えぇ……ほんとに寝てる……」


「先輩ー、寝るならお布団行きましょー」


「ん」


 真菜が肩を揺さぶるが、悟はまったく起きそうにない。


「……南條さぁ……将棋教えてくれて、ありがとうなぁ」


「え、ど、どしたんすか先輩、いきなり」


「双葉ぁ……あのとき将棋に誘ってくれて、ありがとうなぁ」


「な、なんで、そんな、サトルちゃん」


「…………すぅ」


 悟は完全に熟睡してしまったようだ。

 無防備に能天気な寝顔を晒している。

 真菜と顔を見合わせ、同時に吹き出してしまった。


 ひとしきり笑ったあと、真菜と二人で鍋や皿の後片付けをした。

 悟の大きな身体を寝室まで運ぶのは真菜と二人でも難しいので、悟はそのまま寝かせている。


「じゃ、せっかくだし先輩が起きるまで指そっか」


 真菜がいつの間にか悟の駒と盤を持ってきていた。


「お酒飲んでるのに大丈夫なんですか?」


「こんなの飲んだうちに入らないよ。全然へーき」


「じゃあ……手加減しませんよ」


「当然」


 この先、悟や真菜との関係がどうなるかなんて分からない。ずっとこのままの曖昧な関係ではいられないかもしれない。

 それでも。

 だからこそ。

 今のを大事にしていきたい。


「よろしくお願いします」


 そんな想いを胸に、双葉はゆっくりとを突いた。



・・・・ ・ ・・・・・・………─────────────………・・・・・・ ・ ・・・・

 


 ☗双葉の将棋格言講座☗

 

 『端歩はしふは心の余裕』


 を囲うとき、その端のを突いておく。

 たったそれだけのことで、終盤に追い詰められそうなときにがスッと逃げられるんだよね。その一手のおかげで、逆転することだってある。そういう話だよ。


 生きてればいろんなことがあると思う。そんな大した経験があるわけじゃないけど、私だってそれくらいはわかるよ。

 だからさ、何が言いたいかっていうと……んっと、なんて言えばいいのかわかんないけど……。


 これからも……ずっと将棋を指していこうね。

 きっと、それが私たちの“心の余裕”になると思うから。



 《 終 局 》 

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