4.11. 楽しいこと
歯を食いしばっている間に、視界は高速に移り変わっていった。数秒で丑寅の街が背後に消えると、袁山と〈ミハシラ〉が目に見えて近づいてくる。第一段の燃焼時間は六十五秒、それを頭の中で数えていたが、胸が潰されて息が苦しくなり、意識が飛びそうになる。それを防いだのは、相変わらず意味不明な歌を叫び続けているピピだ。こんな状態では黙れとも言えず、情報量が多すぎる音を堪え続けるしかない。
それでもエンジンの轟音が不意に何度か空振ったのに気づき、アカネは我に返ってパネルに目を落とす。激しい揺れと加速による血流異常で焦点が合わない。それでも必死に数値とバーに目をこらし、僅かに〈ミハシラ〉への進路にずれが生じているのを把握する。加速に持って行かれそうになる腕に力を込め、修正を試みた。辛うじて何度かのタップで成功したらしい。再び赤黒い線が中央に捉えられ、次第にその太さが認識できるようになる。
これほどの加速を味わったのは降下作戦以来だったが、あのときはレールガンの狙撃を受け、状況を楽しむどころではなかった。しかし今は次第に成功を確信してきて、強力なテクノロジーのパワーとそれが生む信じられない物理現象が楽しくて仕方がなくなってきた。顔面の肉という肉が後ろに引っ張られていたが、それでも頬を歪ませ、息苦しさの中で断続的な笑い声を上げる。
その時、自動的にTVC制御が加わり、加速の向きが変わった。八十度の上昇。腰がシートの中にめり込み、肺の空気が胃に押しつけられる。こみ上げた胃液を必死に飲み込んでいる間に、目の前が目映い光に覆われた。
月だ。近くて遠くて、恐らくは自分の生まれた不毛の地。
だからといって感傷は微塵もなかった。今では〈娘たち〉の月面施設は、邪悪な何物かだとしか思えなくなっている。最初は眩しさに目を細めていたが、〈ホワイトスーツ〉は自動的にバイザーの透明度を暗くする。それでパネルの数値もよく見えるようになった。燃焼時間はあと十秒。
想像以上に時間が差し迫っていて慌てた。今は月を前面に、〈ミハシラ〉を底面にして飛んでいる。全力を入れてキャノピーから下を見ておおよその距離と位置を把握すると、軌道を僅かに修正してから第一段の切り離しボタンに手を置く。
エンジンは何度か断末魔のような叫びをし、最後には沈黙した。即座にボタンを叩くと、シートが揺れてミサイルの半分が落下していった。
いや、正確に言うと、ピピも切り離された第一段も未だに上昇を続けている。それでも加速が終わったことで、潰されそうだった胸も押しつけられていた四肢も自由に動かせるようになった。パネルを叩き、ピピの進行方向と姿勢、速度を改める。ここからは進路修正が効かないが、アンカーが十分に届く範囲内に収まりそうだ。
そこまで確かめ終えると、詰めていた息が自然と吐き出される。狭まっていた視界が広がってきて、周囲を眺める余裕も生まれてきた。
後ろを見ると、袁山の雲が広範囲に広がっているのがわかる。こうして見ると月明かりを浴びた雲海は綺麗な雲海になっていて、とてもその下に凶暴な粘菌生物が蠢いているとは思えないほどだ。
それに対し、周囲に広がる砂漠は死の印象しかない。丑寅は黄土色の中の小さなシミのようなものだ。そして亥の街は、これほどの高度から見ても淡い燐光に包まれているのがわかるほどだった。相当に粘菌が繁殖している。このままでは地球上に広まってしまうのも時間の問題だ。
強烈な耳鳴りが治まってくると、相変わらずピピが何かを歌い続けているのに気づいた。ようやくお決まりの台詞を口に出来る。
「うっさい!」
珍しくピピは素直に黙ったが、すぐに興奮した様子でべらべらと話す。
『いやぁ、なかなかすさまじい体験をさせていただきました。ワタクシに一切制御権がなかったのが残念ですが。そうだ、せっかくですしこのロケットをワタクシの標準装備にしませんか? あのプーさんに頼めばきっと上手いことやってくれますよ?』
「あいつ嫌いなんじゃなかったんかい」言いながら振り返るとトキコは目を閉じ、シートにぐったりと寄りかかっている。「トキコ、大丈夫? トキコ!」
叫ぶと、小さな呻き声を上げて目を開く。あまりの加速で失神してしまっていたらしい。
「なに? どうなってるの?」
朦朧として言う彼女に苦笑し、状況を説明する。何度かのやりとりでようやく我に返った様子で、顔を真っ赤にしながら勢いよく言った。
「やだ、凄い、まだ生きてるのね! 絶対無理だと思ってたのに!」
あんまりな台詞にアカネは吹き出した。
「真面目に? 結構自信ありげだったのに」
「だって二百年も塩漬けしてたミサイルに、見込みだらけの乱暴な計算よ? 上手くいってるだなんて信じられない」
「じゃあ何かい、私を道連れに死ぬつもりだったの」
「まぁ、それは、アカネなら別にいいかなって」そこで慌てて付け加えた。「やだ、悪い意味じゃないのよ? そうじゃなく――」
「別にいいよ。実際、何もやらないでグダグダ生きるくらいなら、ドーンと派手に死んだ方がマシだし」
応じたアカネにピピも混ざってきた。
『さすがご主人様一号様、いいこと言いますね。ワタクシも一号様二号様のためなら、いくらでも華々しく散ってみせますよ。なのでロケットをワタクシの標準装備に――』
スピーカーをオフにしてパッドの数値を改め、トキコに向けた。
「そろそろ相対速度がゼロになるよ」
「わかったわ。アンカーの準備を」
言われるまでもなく、いつでも射出できるよう用意していた。次第に背にかかる重力が惰性の速度を奪っていき、ピピを地球に引き戻そうとする。そこでアカネがボタンを叩くと、側面に装備していた四本のアンカーが勢いよく射出された。数十メートルの距離を飛ぶと、二本が〈ミハシラ〉の構造体に絡んでくれた。ピピはアンカーに引っ張られ、弧を描いて〈ミハシラ〉に突っ込んでいく。すかさずバギー形態のまま腕だけ稼働状態にすると、迫ってくる赤黒い柱に指を立てて減速し、静止させた。
アカネがピピの両腕を操り目的のレールに寄って行かせている間に、トキコは現在地点の計算を行っていた。地表から約二千五百キロの地点で、二十一世紀であれば国際宇宙ステーションが遙か下を過ぎっていくのが見える高度だ。月だけではなく、地球も相当丸く見える。青白い惑星と黄金色に輝く衛星に挟まれ、何とも言えない息苦しさを感じるほどだ。
遙か前方、三千五百キロの所に中間ステーションがあるはずだったが、まだまだ遠すぎて何も見えない。しかしそこから更に三千キロの位置にある月は、相当巨大に感じられる大きさになっていた。
「信じられないけど、殆ど計算通り」トキコは言いながらパッドを操った。「これなら相当余裕が出来るわ。第三段は半分程度の噴射で良さそう」
その頃、アカネはピピをレールに据え付ける作業を終えていた。こちらも大慌てで作ったにしては、信じられないほどぴったりだ。完全に固定されているのを確認すると、アンカーを切り離して棄てる。
「じゃあ、第二段の点火ってことで?」
「いいわよ。きっと上手くいかないだろうけど」
トキコはこの悪い冗談を気に入ってしまったらしい。クスクスと笑っていたところで、アカネは容赦なく点火ボタンを押す。
途端に強力な加速を受ける。だが第一段エンジンに比べれば推進力が三割ほど少ない。加えてレールガイドの摩擦を受けているため、心と体にはだいぶ余裕があった。
四つのレールガイドは、最初の衝撃を受けてバランスを崩していた。しかし間もなく平衡を得ると、粘菌製のスライダーをレールに擦らせながら一直線に〈ミハシラ〉を駆け上がっていく。
第二段エンジンもやはり燃焼時間は六十五秒、最大で秒速千メートルに達する計算だ。スピードメーターはピピの光学系を使った簡易的な代物だったが、だいたいの目安にはなる。どんどん数値は増加していき、秒速五百メートルになろうとした頃だ。唐突に右のエンジンが不完全燃焼を起こし、レールガイドが撓む。アカネがハンドルを操って少しでも平衡を保とうとしている一方で、トキコは左エンジンのスラスターを制御し重心を揺らさないようにする。第一段と同じく、すぐに復帰するだろうと思っていた。だが右エンジンはなかなか息を吹き返さず、トキコは繰り返し点火信号を送っていた。
「やばいやばい、重心が右に寄りすぎてる!」
既にダンパーは限界近くまで押し込まれている。トキコは繰り返しパッドのボタンを叩いていたが、右エンジンは沈黙したままだ。
「もう駄目! やっぱり上手くいかなかった!」
トキコが叫んだとき、唐突にエンジンは火を噴いた。予期していなかっただけに、二人は慌ててバランスを取り戻そうと様々な制御を加える。そしてなんとか安定させ、これでもう大丈夫だろうと一息吐いた時だ。今度は左エンジンが停止した。単純に燃料が切れたのだが、右側はまだ生きている。
「うわー! これは考えてなかった! 私の馬鹿!」
叫びながら、どんどん重心が左に持って行かれるのを留めようとする。時間にしては二十秒程度だったが、まるで何十分にも感じた。ようやく右エンジンも燃焼を止めたが、バランスは崩れたままだ。とにかく第二段エンジンを切り離し、右に左に揺れるピピを減衰させようとしている間に、どんどん速度は落ちていく。
「アカネ! ブレーキブレーキ!」
「わかってる!」
すぐに両腕を突っ張り、レールガイドを〈ミハシラ〉に押しつける。高速で相当に酷使してしまったおかげで、唐突に左前方のレールガイドが弾け飛んだ。破断した金属がキャノピーにぶち当たり、トキコだけではなくピピも悲鳴を上げる。
それでも、なんとか静止した。しかし三本のレールガイドはミシミシと音を立て、あまり安定しているような感覚はない。
アカネがヘルメットを収納させて汗を拭っている間に、トキコは手早く状態の再計算をはじめていた。混乱していて気づかなかったが、前方に〈娘たち〉が据え付けた円状の構造物、中間ステーションが見えていた。ピピの光学系で拡大表示しているだけで実際の距離としてはまだ二百キロほどあるが、あそこまで行ければエンジンに用はない。月に引かれるまま落ちていけばいいからだ。
しかしそこから先にもまだ、問題はある。
「やばいね、中間ステーションまで行けたとしても、レールガイドが持たないかも」
エンジンの推力はなくとも、今度は月の引力に引っ張られる。減速する手段はレールガイドしかない。
それを言ったアカネに、トキコはパッドに指を走らせながら応じた。
「ここからはあまりレールガイドに負荷をかけないよう、慎重にいかなきゃ。中間ステーションで丁度速度をゼロにするには、第三段の燃焼時間は五秒でいい」
「五秒で切り離す?」
「そう。燃焼は止められないから」普段通り鋭く言ったかと思うと、トキコは急に泣き声を上げた。「そんな上手くいくと思う? 下手をすると後ろから追突されるわ! もう無茶苦茶じゃない! 誰よこんな計画立てたの!」
すっかりパニックに陥っているトキコに、笑うしかなかった。
「見て」アカネは言って、前方を指した。「月があんな大きいよ。それにほら」と、後方を指す。「地球があんな小さい。小さくはないか。でもほら、袁山も殆どわかんない。ここはもう殆ど月と地球の重力の中間点でさ、あっという間に地球に真っ逆さま、って事にはならない。そうだ」
アカネはトキコがちゃんと〈ホワイトスーツ〉のヘルメットを閉じているのを確認してから、ピピのキャノピーを開け放った。
殆ど加圧していなかったのもあって、それほど衝撃もない。何をするつもりかと目を丸くしているトキコにウィンクしてから、アカネはシートベルトを外し軽く床を蹴った。
身体はほとんど何の引力も受けず、虚空に漂っていく。途端にトキコは大騒ぎしたが、アカネは笑いながら右手の親指を人差し指の側面に押しつけた。〈ホワイトスーツ〉のスラスターコントロールだ。小さなバックパックから圧縮空気が放たれ、くるりと身を翻して〈ミハシラ〉へ向かう。直径五十メートルほどの赤黒い網目状の構造物は、子供の頃に遊んだジャングルジムのようだった。スラスターを操り間を縫い、反対側の柱に手を引っかけて反転する。
「ほら、せっかくだし遊ぼうよ」
戻ってトキコに言うと、彼女は繰り返し繰り返し頭を振った。
「無理無理、私、絶対にどこかに行っちゃう」
「大丈夫だよ。ほら」
アカネは〈ホワイトスーツ〉のアンカーを引っ張り出して、トキコの腰に先端を引っかける。そして力なく抵抗する彼女のシートベルトを外すと、ピピの外に放り投げた。
トキコは悲鳴を上げて四肢をばたつかせる。ピピを蹴ってすぐに追いつくと、彼女の小さな身体を掴んでスラスターコントロールの方法を教える。最初はおっかなびっくりではあったが、〈ミハシラ〉という手掛かりを得て安心したらしい。あちこちに激突しながらも、次第にコツを掴んでくる。悲鳴はすぐに奇声に変わっていき、二人は歓声を上げながら柱の間を飛び交った。
〈ホワイトスーツ〉の宇宙服としての機能は、所詮簡易的なものだ。すぐに空気切れの警告が出てしまい、アカネはトキコを伴ってピピに戻る。キャノピーを閉じて加圧すると、トキコはヘルメットを収納させて真っ赤な顔を露わにした。
「楽しかった! こんなに楽しかったの、生まれて初めてかも!」そして汗を拭い、大きく息を吐き言った。「あんまり実感ないけど、今、私たちは宇宙にいるのね」
「そうだね。もう地球の半径くらいの距離を旅してきた」
「そういえば私、子供の頃、凄い不思議だったんだ。あの〈ミハシラ〉を登っていけば月に行けるのに、どうして誰もやらないんだろうって。袁山とか、実際の距離とか、全然頭になかった。ただあの月から地球を見たらどんなだろうって、そればかり考えてた。空想するのが楽しかったのね。そうしたらお母さんが、凄い山ほどの本を持ってきて――」
「英才教育が始まったわけだ」
「それまでお母さんが〈魔女〉だなんて知らなかった。あとで聞いたら、お母さんは私を〈魔女〉にする気は全然なかったんだって。お父さんは〈魔女狩り〉にあって死んじゃったから。それもあって〈アーカイバ〉の首領としてのトキコ家は、自分で終わりにしよう。そう思ってたって」
「そう、なんだ。知らなかった」
辛うじて言ったアカネに、トキコは微笑んだ。
「いいの。別に〈魔女狩り〉は恨んでない。むしろ私は、どういう人たちなんだろうって。半分羨ましかった。月に住んでて、ロボットに乗って降りてくる娘たち――伝説でしか聞いたことがなかった。みんな真っ白で、頭が良くて、凄い強くて――」
「こんなんでごめんね」
苦笑いで言うと、彼女は大きく頭を振った。
「そんなことない! アカネが〈娘たち〉だってわかっても、やっぱりとしか思わなかった。凄い頭が良くて、強くて――何か変で」笑うアカネに、彼女も笑った。「正直、〈アーカイバ〉のリーダーとか、辛かった。でもみんなといると夢を見れた。とても実現できるとは思えない夢だったけれど――それが本当に出来るかもしれないと思い始めたのは、アカネと出会ってからよ」
「レールガンで〈娘たち〉を倒したり?」
「粘菌を眠らせたり?」
「ミサイルで月に行こうとしたり?」
「そう。全部、到底出来るとは思えなかった事ばかり。でも今、私はこんな所にいる。楽しい。そう、楽しさって、忘れてた――」
トキコは目を閉じ、深く息を吸った。まるで今という時を全身に刻み込もうとしているかのようで、アカネは苦笑いしながらピピのステータスを改めた。
「さて、まだまだ楽しいお話は続くよ。第三段の点火準備は?」
少しして、彼女は目を見開いた。
「いいわ。やっちゃおう?」
親指を立てるアカネに、トキコはヘルメットを展開させ、点火ボタンを叩いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます