4.14. 母さん

 可能性の一つとしては考えていた。しかし実際に目の当たりにすると、指先が震え、頭の芯が痺れてくる。


 彼女はもはや正常な状態ではなかった。顔色もさることながら、緑の瞳はぎょろつき、髪は真っ白で、身に纏ったホワイトスーツはすり切れている。


 本能的に後ずさりそうになる。だが歯を食いしばって堪えていると、彼女はアカネと距離を隔てて立ち止まり、僅かに首を傾げた。


「どうした。私を殺しに来たんだろう? さっさとやってくれよ」


 消え入りそうになる声で言う茜。トキコはアカネの腕を強く握りしめ、声を震わせた。


「どういうこと? 彼女――まさかアカネのオリジナル――水沢茜本人?」


「そうだよ」応じたのは茜だった。辛そうに地面に胡座をかくと、整然と並んだ墓石を眺める。「他はみんな死んじゃった。とても〈複合体〉になってまで生きていたくないってね。そしたらどうしようもないよね。言い出しっぺの私がケツを拭かなきゃ」


「ロッドはどうしたの」


 吐き気を無理に飲み込んで言うと、茜は粘菌にまみれた地面に目を落とし、口元を歪めた。


「彼女は元々、月に来なかった」


 そうして相当な改造の施された腕のパネルを操作すると、背後の粘菌溜りがざわめいた。波打ち、跳ね、粘性の音を立て――そして二つの集合体が垂直に立ち上がった。まるで溶けたメロンアイスのようだったが、次第に形が精細になり、半透明になり、最後には二人の人物像とわかる姿になる。右手の一人は何かのハッチから身を乗り出し、片腕を伸ばしている。もう一方の人物は両足を開いて棒立ちし、地面を見つめていた。


 やがて右手の投影が、くぐもった声を上げた。


『なにやってんのロッド! もうすぐ強烈な津波が来る! 早く行こう!』


 呼びかけられたロッドは、大きくため息を吐いてから応じた。


『そんであたしゃ月で、何かやることあんの?』


『そりゃあ――まだわからないよ! 誰かが月にやってこないとも限らない。その時はロッドに防いでもらわないと――』


『そんなの、メニリイが軍からパクってきたロボットがありゃ十分だろ。あたしの役目は、もう終わり』


『でも――』


 必死に言葉を探す茜に、ロッドは顔を上げる。笑みを浮かべてはいたが、疲労し、困憊し、今にも失神しそうな表情だった。


『あたしゃもう疲れたよ。そろそろ死んでもいい?』


 再生が停止したようだった。それでも粘菌で形作られた投影は小刻みに揺れ、波打ち続け、やがて茜は応じた。


『いいよ』


 シャトルの扉が閉じると同時に、ロッドは頭にあてた銃の引き金を引いた。粘菌は一斉に飛び散り、全ての形を崩し、揺れる水面の中に沈んでいく。


「なんてこと」


 呟いたアカネに、茜は裂けそうな肌を歪めて苦々しく笑った。


「だろ? 嫌になる。だからさっさと殺してくれる?」


「なんで! どうして!」混乱し、まともに言葉が出てこない。「あんた、訳がわかんないよ! どうしてこんなことしたのさ! 一体何がしたかったんだよ!」


 笑みを浮かべたまま答えない茜に掴みかかりそうになる。だがトキコがそれを制し、言った。


「ここが〈母さん〉、〈MOTHER〉なのね。あなたの作った〈OTHER〉の進化版」


 はっとして彼女を見つめる。トキコもまたアカネを見上げ、粘菌溜りに沈み込む光ファイバーの束を指し示しつつ続ける。


「オブジェクト指向型自己組成量子分散複雑性処理モデル。通称〈OTHER〉。だったわよね? それを粘菌(SLIME MOLD)の量子性を利用するよう改良した。こここそが、〈娘たち〉の生まれた場所――」


 茜はようやく応じた。


「さすが時子。頭いいね。私なんかより全然。でも彼女はタイミングに恵まれなかった。道理に外れたことも出来ない性格だったし――」


「それより何? 〈MOTHER〉って一体」


 わからず尋ねたアカネに、彼女は再び腕のパネルを操作する。今度再現されたのは会議室のような場所で、三つの塊が激しくやりあっていた。


『つまりこういうこと。あんたの集めたGAFAのデータを粘菌に突っ込めば、全ての人類活動が量子空間に再現される。可能だろ? 原理的にはそういうこと』


 言った茜に、ポニーテールの女性が何度も頭を振りながら応じた。


『原理的すぎて突っ込みどころが多すぎる』声からしてグレティだとわかった。『いくらGAFAのDBに人類活動の大半が格納されているとはいえ、見えないところは無数にある。むしろ見えない所の方が殆どよ。それを穴埋めするなんて不可能――』


『無限の可能性』ドクター・ベンディスが引き取った。『それこそが量子の得意とするところよ。観測と収束。点と点を繋ぐ線を虱潰しに洗い出せるの。結果として断片的なライフログからでも、九十七パーセントの精度で実際に起きた事をシミュレート出来る。実際に起きなかったことも含めてね』


『いやでも――それも原理的なお話で――』


『原理じゃない。実装できてる』


 言った茜に、グレティは息を飲んだ。


『まさか、本当に?』


『あぁ。高校の頃の私のライフログを突っ込んでみたら、だいたい記憶通りの行動を再現出来た。データとして残っていない部分もね。だからそれを全人類に適応すれば――』


『粘菌の中に、別の世界を作ることが出来る』


『そう。現実世界の人類は粘菌に滅ぼされる。でも粘菌の中で、私たちは生き続けられるんだ。無限の可能性を保持したままね。そこでは粘菌の漂着が起きなかったタイムラインもあるだろう。そりゃ、別に粘菌がなくても人類はいずれ滅びるかもしれない。でも可能性は残せるんだ』


 グレティは必死に頭を巡らせていた。指先で机を叩き、考え込み、僅かな粗でも見逃すまいとする。


『粘菌の中に別の時空を作ろうっての。凄すぎて頭がクラクラしてきた。前からだけど、今度ばかりは真面目にツクヨミの頭の中が怖くなってきたよ。これぞマッドサイエンティストって感じ。でも一点だけ。最新のGAFAデータベースは、IXが崩壊した影響で虫食い状態でしか確保できてない。それでも可能?』


『いいんだ。どうせ量子マトリクスを構築して時空再生を始めるにしても、この2038年からじゃあ誤差が大きくなりすぎる。だからある一定期間は未来の可能性の一つと定義して収束させる仕組み。だいたい最新のデータからじゃ粘菌に滅ぼされる世界が殆どだろうから、実際に再生させるのは2020年の粘菌漂着が起きる前――2018年頃からがいいと思ってる。ただ問題が一つだけ――』


『こんな異常な計画だってのに、問題は一つだけ?』


 おどけて言ったグレティに、茜は肩を竦めた。


『たいした問題じゃないけどね。いくら粘菌が何百万リットルもあっても、処理が重すぎるんだ。だから新しい時空は、現実に対して百分の一くらいの速度でしか進まない』


『たった百分の一で済むの? むしろ凄すぎ。でも関係ないわ。中で生きる子たちには、わかりゃあしないもの』


『そういうこと。じゃあ、協力してくれる?』


『出来る出来ないは関係なく、やってみたい』朗らかにグレティは笑った。『今日からマッドサイエンティストの弟子になろう。それで新しい世界を作るんだ』


 そこで粘菌は動きを止め、水面に崩れ落ちていく。


 アカネは改めてそのエメラルドグリーンの湖を見つめ、言った。


「つまり、この中では――別の世界が続いてるの? 粘菌が漂着しなかったかもしれない世界も?」


「調べた限り、粘菌が漂着する未来を示唆していた記録は一つだけ。粘菌彗星をアマチュア天文学者が一瞬捉えただけだった。だから粘菌時空の九割の世界では、今のところ粘菌は襲来していない」


 応じた茜に、トキコが尋ねた。


「そしてアカネは――いえ、〈娘たち〉の構築データは、この粘菌時空から抽出したのね。だから世代によって、ベースとなっている時間が異なってる」


「そういうこと。つまりセブン、ここはあんたのいるべき世界じゃない。あんたの故郷は、この中にあるんだよ」懐かしそうに目を細め、項垂れた。「粘菌時空は今、まだ2021年。私は相変わらず馬鹿ばっかやってて、時子は受験に向けて勉強の虫で――たまに思うよ。あのまま時子と、卒業してからも親友でいられたらなって。そしたらあんなことにはならなかったのに――」


「あんなこと?」応じない茜に、思わず詰め寄った。「あんた、結局時子に何をしたのさ!」


 再生され始めた場面は、月面施設のブリーフィングルームだった。そこにはほんの数ヶ月前の記憶と同じように、〈娘たち〉が集まっている。しかし微妙に髪型や体形が異なっていて、そこにロッドの姿はない。


 一同は机上に映し出されている三次元モデルを見つめていた。精密にカリマンタン島が再現されていたが、2020年とはだいぶ様相が異なっている。今の〈月下〉と折衷したような形で、中央に激しく噴火する新山があり、地殻変動でセレベス島やオーストラリア、マレー半島などと繋がる細い回廊が生まれかけていた。


 立体映像の中に、五つの光点が現れた。


『それは何?』


 尋ねたセレネに、茜は説明する。


『地球の短波無線を傍受したんだ。ISAの連中が五つの核でカリマンタン島を沈めようとしてる』ざわめきが収まるのを待ってから、彼女は続けた。『粘菌の足を、連中は〈ミハシラ〉とか呼んでる。それが地表に届けば終わりだと考え、先手を打つ構え』


『相変わらずNASAの連中は馬鹿ばっか』クーが仏頂面を更に歪めて吐き捨てた。『あ、今はISAってんだっけ? 別にどっちでもいいけどさ。せっかく地殻変動も収束方向にあんのに、んなことしたら更にガタガタになる。マジで人類は死滅するよ』


『どうして? 核爆発のせいで?』


 尋ねたセレネに、頬杖を突きながら応じる。


『ちがう。粘菌には意志が――いや、意図があるんだ。連中は水を欲しがってる。だからカリマンタン島上空に月を留まらせ、地球に足を伸ばし始めたんだ。なのにそこが急に大の苦手の海水に変わってみな? やだー、って、また月を動かし始める。南米かアフリカあたりを目指してね。そしたらまた潮汐力があっちにいったりこっちにいったりして、今以上に強烈な規模の火山の噴火が起きる。下手したら地球は本格的な氷河期に突入して氷の世界になっちゃうかもね』


 後は茜が引き取った。


『でも現実問題として、〈ミハシラ〉が地上に届いたら人類が相当ヤバくなるのも確か。何とかしなきゃいけない。それで――今まで地上の事には関わらないようにしていたけど、さすがにここは介入するべきじゃないかと思う。みんなの意見を聞かせて』


『キューブは?』最初に手を挙げたのはメニリイだった。ロッドのいない今、軍事作戦となれば彼女が指揮を執る事になる。『あれが完成すれば、粘菌を完全に制御下に置けるんでしょ? それで〈足〉を止めれば、ISAも下手なことはしないでしょ』


 すぐにクーは机に伏せてあえぎ声を上げた。


『やってるって。でもあと二月はかかる。別にサボってんじゃないよ? 物理的に無理なんだ。それもこれも地球から資材をちゃんと持ってこれなかったから――』


『ISAって、今は誰が仕切ってるの? あそこも随分亡くなったでしょう』


 尋ねたセレネに、茜は頭を掻きながら答えた。


『矢田時子って、日本人の元JAXA』


『それって、あなたの友だちだったとかいう人じゃ?』


『一瞬だよ。もう二十年も前の事』


『でも友だちだったんでしょう。何とか事情を説明して思いとどまらせる事は出来ない?』


 すぐに周囲から否定の声が上がった。ここまでたった十二人で事を為し得たのは、徹底的な秘密主義のおかげだ。それを覆したなら何が起きるかわからないと。


『私も反対』メニリイも宣言した。『〈エージェンシー〉との事、忘れたわけじゃないでしょ。彼らの〈スーパービルディング計画〉が上手くいけば、人類の大多数が助かる。そう思って手助けしようとしたけど、結局裏切られて私たち全員殺される寸前まで行った。違う? 現在、月に軍事的脅威は殆どない。それは私たちの存在が知られてないからだよ。地上じゃまだ米軍やロシア軍の残党が活動してる。そして月に来ることの出来る知識と技術を持ってるのは? ISA。連中が手を組んだらどうなると思う? 私たちの存在を知られちゃならない。少なくとも、今はまだ』


『でも、地上を完全に見捨てるのは――』セレネは呟き、茜に目を向けた。『実はもう、何か作戦があるんじゃ?』


 一同に目を向けられた茜は、しばらく押し黙ったまま三次元映像を眺める。やがて何かを吹っ切るように手を振ると、五つの赤い点は海上に移動した。


『計算してみた。連中の核を奪い、島内じゃなく海上の五カ所で起爆する。すると最大百メートルの巨大な津波が発生してカリマンタン島の九割を飲み込む。核クレーターの外輪山は島の殆どを覆って、流れ込んだ海水の流出を遅らせる』


 クーがパチンと指を弾いた。


『うぉー、さすがツクヨミ、あったまいい! それで島を塩まみれにしようってのか』


『でもそれじゃあ、結局月が移動してしまうことになるんじゃ?』


 尋ねたセレネに、クーは答えた。


『そうはならない。連中の知覚ってそれほど鋭くないからさ。海と地上の区別はついても、塩まみれかどうかは触れてみないとわからないはず』


『そう。それでキューブが完成するまで時間を稼ぐ。地上にはまだ打ち上げ可能なファルコン・ヘビーを四機隠してある。どれかは飛べるはずだよ。帰還も問題ない。どう思う?』


 一同は思案をする。幾つかの質問はあがったが、やはりこの場の監査官はメニリイだ。彼女は十分に検討をしてから声を発した。


『核を奪うには、輸送中を狙って同時に襲わなきゃならない。私たちは十一人しかいない。一カ所当たり二人。ISAだってここまで生き延びたんだ。それなりに武装しているはずだし、いくら粘菌を使って改良したMMWでも、こちらに犠牲が出るかもしれない』


『それを承知の上で、どうかって話だよ』


『いえ、気持ちではなくて意義のお話。これまで私たちはいくら地上が荒れようが傍観することを選んできた。それを今になって翻す理由は何?』


 軍事とはある意味で徹底したアルゴリズムだ。それが全身に染みついたメニリイらしい疑問に、茜は再び沈鬱な表情で沈黙した挙げ句、応じた。


『あたしゃある意味、人類を信じてるんだ。しぶとい連中だってね。いくら戦争が続こうが、何千人か何万人かは生き残る。これまでもそうだった。気候変動、伝染病、世界大戦。でも粘菌は――不味いよ。もし地上に拡散しちゃったら、もうキューブでも制御不能になる』


『だから私たちは別の可能性を粘菌の中に作ろうとしてるんじゃ?』


『そりゃそうだけどさ。やっぱり生の人類が滅びちゃうのは。寂しいじゃん。それが今なら、何とか出来るかもしれない』


 十人の〈娘たち〉は押し黙り、それぞれ思案を巡らせる。やがてメニリイは背を椅子に倒し、諦めたように呟いた。


『やるなら、私らは人類全体から恨まれることを覚悟しなきゃね。連中の希望を奪った謎の組織ってことで』


 茜は頬を歪め、疲れた笑みを浮かべた。


『元から私ら、そういうの目指してたじゃん? やるなら最後まで、やろうよ』


 そして凍り付いた茜の笑顔は、粘菌の中に溶け落ちた。

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