4.13. 施設の奥底
アカネとトキコは、無言のまま月面に立ち尽くしていた。粘菌植物の繁殖は局所的な物ではなかった。数キロ先に〈ミハシラ〉が見えるが、そこからずっと続いている。
しゃがんで改めてみると、見覚えのある雑草ばかりだった。クローバーに、タンポポに、オオバコ、ヨモギ。ススキの群生も見える。所々には若木が背を伸ばしつつあり、まるで地球の温暖な原野と変わらない様相だった――それらが全て、蛍光色を放っている以外は。
小鳥も飛んでいた。一様に緑色の瞳を持ってはいたが、見慣れた連中が沢山いる。スズメ、ハト、ハクセキレイにホオジロ。彼らは既にこの低重力と低気圧に適応しているようで、地球上とは異なった、少しぎこちない調子で漂っていた。
〈ミハシラ〉を背にすると、植生は次第に薄くなっていっていた。地平線の手前では緑の色彩は失せ、暗褐色に変わっている。見上げた空は殆どが地球に覆われていて、地平線近くから太陽の眩しい光が差し込んでいた。
「気圧は0.5。呼吸可能――だと思う」
腕のパネルで状況を改めて言うトキコに、アカネは大きく息を吐きながら応じた。
「とても確かめたくはないね」
「月面がこんな風になっているだなんて、考えてもみなかった。大気が月に流出してるのはわかっていたけれど、当然そのまま宇宙空間に逃げてると思い込んでた。まさかそれが留まってるだなんて――アカネも知らなかったの?」
「月面に出ることなんてなかったから。施設から出たのは、降下作戦でシャトルに乗って中間ステーションに行った時だけ。それも窓なんてなかったし――」
アカネも腕のパネルを操り、シャトルが飛び立った方向に当たりを付けようとした。記憶ではそう遠くなかったはずだったが、ふと〈ホワイトスーツ〉のセンサーが何かを探知し、接続を確立しようとしているのに気づいた。まさか、と思って詳細を改めると、アカネは声を張り上げながらトキコの腕を取った。
「ピピだ! 生きてる!」
「え? 本当に?」
「あっち!」
地球の三分の一の重力下で、跳ねるようにして駆けていく。やがて粘菌植物が抉られて死滅し黒々とした剛体になっている一帯を発見した。それは点々と続いていて、最後には広範囲にわたって金属が散らばっている場所に行き着く。
これは駄目だ、センサーの一つが生きているだけだろう。
そう肩を落としつつも周囲を探っていると、トキコが声を上げてアカネを呼んだ。
彼女が当惑した表情で抱え上げたのは、ピピの頭部だった。あちこち擦れて凹んではいるが、LEDを明滅させている。
「なんとかなるかも」
アカネは周囲を探り、使えそうなパーツを拾い集める。ケーブルを金属片で切断し一方を頭部の破断面に寄りつけると、もう一方をホワイトスーツの電源コネクタに差し込む。途端にLEDは激しく点滅し、最後にはピピッと音を鳴らした。
『あぁ~ それはレールガン~ あれはレールガン~』
ホワイトスーツのヘルメットに響いてきたのは、意味のわからない歌声だった。アカネはトキコと顔を見合わせ、同時に肩を落とす。
「もう捨てていこっか、これ」
アカネが言うと、ピピは再びピピッと音を鳴らし、頭部カメラの焦点を調節した。
『おや、ご主人様。ご無事でしたか。どうやらワタクシも無事のようですね』
続きがあるだろうと待ち受けたが、何もないようだった。
「言うことはそれだけかい」
『えっ、何でしょう一体。あぁ奇跡的な再会の感動というやつですね! あまりご主人様はそういうのはお好みでないと思っていましたが、ご要望であれば早速新曲を――』
「もういい黙れ」
トキコに苦笑いされつつピピの頭をケーブルで結わえ、なんとか運べるようにしようとする。しかしその間もピピは月面の感想だとか墜落しようとしていた時に感じていた事などを無作為に話し続ける。音声ミュートボタンがないだけに次第に拷問に思えてきて、本気で投げ捨ててやろうかと思い始めた時だ。ようやく黙ったかと思うと、何かのメロディーを口ずさみ始めた。それはピピ特有の騒がしい物ではなく、マイナー調の悲しげなものだった。
「それ、いい曲ね」
草原に体育座りし地球を見上げていたトキコが言う。それにピピは不思議そうに応じた。
『はて、何でしょう。あまりワタクシ好みではないのですが、何か頭に残って離れません。ご主人様、ワタクシを三時の方向に向けて戴けますか?』
何だろうと思いつつ抱えた頭を向けてやると、低いうなり声を上げた。
『何もありませんが、何かありそうですよ。行ってみましょう!』
「なんだいその適当な感じのは」
『わかれば何かだなんて言いませんよ。せいぜい二、三キロ先ですし、いいじゃないですか』
前にもこんな話をしたな、と思いつつ、アカネは足を進めた。すぐにトキコも飛び起きて、後をついてくる。
「いいの?」
「うーん、よくわかんないけど、私の記憶でもあっちの方に施設があるはずなんだよね」
「ピピが施設から出てる信号をキャッチしてるのかしら」
「かもね。ま、他に仕様もないし」
二人が踏みしめた粘菌植物は、すぐに赤黒く硬化していく。振り向くと綺麗に足跡が続いていたが、奥の方では緑色の粘液に覆われ、新たな粘菌植物が芽生えていた。ここは完全に粘菌に支配されている世界らしい。見るだけならば幻想的で悪くないが、実際には人の生きていける環境ではない。おそらく数分で粘菌が体内に入り込み、一切の意志を奪われてゾンビになってしまう。同じような環境は〈月下〉にも作り出されようとしていた。海が障壁となるだろうが、鳥には関係ない。そうなると地球は数十年もすると粘菌と海洋生物に二分された世界になるのかもしれない。
そんな想像を口にしていると、トキコは後ろ手に手を組み、地球を見上げつつ言った。
「でも、本当にそうなるかしら。粘菌は単細胞生物よ。遺伝子は一つ。例えば塩、例えば音波で全体を操られてしまう種なんて、システムとしては脆弱すぎるわ」
「逆に〈娘たち〉は、それを利用したんだ。だから彼女たちは粘菌まみれの月に基地を築けた」
ピピは話に加わることもなく、悲しげな歌を口ずさみ続けていた。そして粘菌の野の端にたどり着いた頃、目の前は隆起するクレーターの外輪山に塞がれた。やっと月に来たという感じがする。地表は植物から褐色の砂に変わったが、数センチ下は赤黒い粘菌の死骸に覆われていた。時子の報告書通り、月全体は粘菌の死骸によって殻をまとっているような状態なのだ。
半ばジャンプしながら百メートルほどの坂を登ると、眼下に直径が相当ありそうなクレーターが現れる。きっと名付けられているレベルの物だろう。そして見下ろした先には、明らかな異物がある。金属製のハッチだ。
砂に足を滑らせながら間近まで行くと、相当に大きな物だというのがわかる。古墳のような山の側面にある十メートル四方ほどの代物だ。きっと水沢茜が資材を送った先がここなのだろう。周囲には打ち捨てられた着陸船や重機類が転がっていて、未だに煌びやかな光を放っている。
「なにかある?」
ピピを脇に抱えながら尋ねる。応答は遅かった。
『どうもなにか――頭がはっきりしません。何があるのでしょう』
「見えてないの?」
心配そうに尋ねるトキコに、ピピは何か不明瞭な言葉を返すだけだった。
何か開錠コードのようなものが送れないだろうかと腕のパネルを操作してみると、ネットワーク機能がオンラインになっているのに気づいた。それまでずっと通信不能としか表示されていなかった部分だ。
それで思い出した。施設の中にいた頃には、ここで格納庫の開錠などの操作を行っていた。当時は気にもしなかったが、リストを辿っていくとエアロックも記載されている。まだドクター・ベンディスも〈母さん〉も、アカネたちの反乱に気づいていないのだろう。送ったコードは問題なく受信され、扉は地響きを立てて開いていく。
同時に内部の照明も灯った。体育館ほどもあるエリアは荷受場になっていて、二機のシャトルと幾つかのコンテナが残されている。
「やっぱ、ここだ。降下作戦の時、ここから外に出たんだ」
アカネは言いつつ、奥のゲートに向かう。月面に向けて開いているハッチを閉じ、与圧操作を行う。すると扉の脇にあるシグナルが赤くなって、錠が外れる音がした。
最初に左右に開き、内扉が上にせり上がる。現れたエレベータは、アカネたちが大半の時間を過ごしたトレーニングエリアにまで続いていた。グレティたち後発組が旅立ったばかりということもあり、生活感が残っている。飲みさしのドリンク、打ち捨てられたタオル、ソファにはヘアバンドやタブレットが放置されていた。
通路の奥から聞き慣れたモーター音が響いてきた。トキコを促し物陰に身を潜めると、現れたのは数台のドクター・ベンディスだった。モニターに映る彼女たちは左右を見渡し、次々と〈娘たち〉の残した代物をダストボックスに突っ込んでいく。それはかなり徹底したもので、手垢や指紋、塵や埃を目ざとく見つけ、綺麗に拭いていく。十分ほどで生活の痕跡は完全に消え去り、ドクター・ベンディスたちは満足そうに頷いて去って行った。
それでも一台だけ、四本のアームを備えた格闘訓練用のドクター・ベンディスだけは残った。クーの根城だった生化学実験室へ向かう彼女を慎重に追う。施設はプライバシーというものがない。どの壁も上半分はガラスになっていて、覗き見は簡単だった。彼女が操作していたのは生化学用3Dプリンターで、コンソールに何か操作が加えられると、見たことのないメニューが開いた。
遠くて文字までは見えない。だが次々と表示されていくのは十二人の〈娘たち〉だった。その中からアカネ――ツクヨミを選択すると、途端にプリンターは稼働しはじめる。形状保持ジェルに満たされたカプセルに数本のインジェクターが差し込まれ、赤黒い何かを描き続ける。
何をしているのか、もはや見る必要もなかった。アカネは場違いに浮かんできた笑いを無理に飲み込みつつ、トキコを逆方向に促した。エレベータを避けて階段室に入ると、ようやく溜め込まれていた笑いを発散させる。
とっくにトキコも事情を理解していただろう。アカネ、と心配そうに声をかけてきたが、それを押しとどめ、ようやく息を整える。
「いやいや、〈娘たち〉ってのは凄いね。〈プリンテッド〉まで作れたなんて」
「プリン――?」
「印刷された人間だよ。私の知ってる頃でも、内臓なんかは3Dプリンターで作れた。きっとクーのオリジナルが作ったんだろうね。あいつもマッドサイエンティストの素質があったから」複雑な表情を浮かべ続けているトキコを、再び笑い飛ばした。「ちょっと止して。私がプリンテッドだろうが何だろうが、何も変わらないじゃん。それは私が一番良くわかってる。それともトキコ、私が人造人間だったら嫌?」
「いえ、そんなことない。でも――」数秒考え込み、彼女は続けた。「プリンテッドの技術は、それは凄いけれど。それより問題なのは――『どうやって彼女たちのデータを得たのか』よ」
「それは自分たちの身体をスキャンとかして――」そこでアカネも、トキコが何を疑問視しているのかわかった。「そうか。ツクヨミ4の話じゃ、〈娘たち〉が本格的に活動を始めたのは2030年代だった。その頃、連中はとうに三十代になってた。でも作られるのは十七才――」
「そう。きっと彼女たちは次世代の〈娘たち〉をプリントするときに、神経回路の一部に操作を加えて逆行性健忘を引き起こさせる。それはドクター・ベンディスの指導を疑問なく受け入れられるようにするためなんでしょうけれど、矛盾しているわ。全てを知っている三十代の彼女たちのデータをスキャンして、それを代々プリントした方が反乱の心配も少なくなるのに」
「確かに、そうだね」
「そしてアカネの場合、たまたま事故に遭ってその封鎖が解かれた。それでも記憶にあるのは2020年まで。つまりプリントされるデータが記録されたのは、やっぱりその頃ということになるけど――」
「無理無理。私の知る限り、2020年にそんな技術は存在しないよ。不可能」
わからず首を傾げるアカネに、トキコも肩を竦めて見せる。
とても答えは出そうにない。アカネは階段を下って居住エリアに入った。こちらもドクター・ベンディスたちが活発に活動し、生活の痕跡を徹底的に抹消している。そうして最後に完成した〈娘たち〉が運び込まれ、教育が開始されるのだろう。
次第にここは、マッドサイエンティストが作り出した狂気の施設のように思えてくる。悪寒が止まらなくなってきたが、隣を歩くトキコのおかげで冷静さを保てた。次に向かったのは最下層にあるキューブエリアで、ここに来たのは二度目だった。別に禁止されていたわけではないが、来る理由もなかった。動く物の気配は皆無で、記憶から何も変わっている様子はない。タラップを歩き真っ黒な壁の前まで来て、結局これは何なのだろうと手を当てる。
鈍い振動が響いてくる。ドクター・ベンディスの話では、これは巨大なアーカイブ装置で人類の記録全て保存されているという。しかしそれは虚構としか思えない。ではこれは、一体何なのか。アカネたちを騙すハリボテにしては金がかかりすぎている。ホワイトスーツの腕を叩いて何か得られないかと調べたが、どういった種類の電波も出ていなかった。
「ピピ、あんたの生きてるセンサーで何か感知できない?」
尋ねたが応答はない。担いでいたピピの頭を改めてみると、普段はチカチカと瞬いているLEDが等間隔で明滅していた。
以前にも見たことがある。自身の心の内を探れと命じた時と同じ反応だ。
「そういうことか」
呟いたアカネに、トキコが尋ねた。
「何が?」
「ピピの言っていたことだよ。全てで一つ。個性への疑問――粘菌はどんなに離れていても、全てで一つなんだ」
その時、深い深い声が響いてきた。途端にぞっとして全身を震わせる。この施設にいた頃からそうだった。彼女の声はなんだか不自然で、芝居じみていて、アカネが嫌悪する全ての要素を備えていた。キューブがハリボテなら、彼女もまたハリボテなのだ。
『おかえりなさい、ツクヨミ。この施設を出た〈娘たち〉の中で、戻ってきたのはあなたが初めて。あなたの顔がまた見られて、私はとても嬉しいわ』
弾かれたようにトキコは宙に目を向ける。一方のアカネは唇を噛み、慎重に応じた。
「んなことないでしょ。私の顔は散々見たはず――七度もね」
答えには時間がかかった。何か含むような沈黙が続き、ようやく彼女は疲れたような声を発した。
『正確には、それ以上。さぁ、いらっしゃい。あなたは特別に歓迎しなきゃ』
するとキューブの中央が割れ、中にエレベータらしき箱が現れた。中に入る以外に選択肢は考えられなかった。トキコに引き留められたが頭に血が上っていて、振り払うように言う。
「私は行かなきゃならない。このイカレた状況をぶっ潰すために。トキコは待ってて」
すぐに彼女は、呆れたように応じた。
「待っててどうしろっていうのよ。戻ってこられるの?」答えないアカネに、大きくため息を吐いた。「いいわ、一緒に行くしかなさそうね。死なば諸共よ」
苦笑いするより他になかった。二人がエレベータに乗り込むと、扉はすぐに閉じて下降していく。その下にあるものも、アカネはおおよそ想像できていた。だから扉が開いても何の感慨も受けなかったが、トキコは途端に歓声を上げて目を見張っていた。
巨大な洞窟だ。鍾乳洞のように天井からはつららが垂れ下がり、岩の上は粘液に覆われている。その全てが淡い緑色の光を発していて、少し先には地底湖とも呼べる広大な粘液溜りが存在していた。
途中から岩に遮られているが、実際はどれだけ広がっているのかわからない。ひょっとしたらこれが粘菌の巣で、月の地下全体に広がって流動しているのかもしれない。それを想像すると寒気がしてくる。莫大な粘液が光も届かない地下を流動し、増殖し、重力を生み出し、圧縮され、月という衛星にしては巨大すぎる星を支配している。
ふと目眩がして、足下がふらつく。トキコも同じらしい。アカネの腕を掴んで頭を振ると、朦朧とした様子で洞窟の天井を見上げ、指し示す。
「あれは――スピーカー?」
ライブ会場で見るような、大きなスピーカーだった。一つだけではない。洞窟のそこかしこに置かれ、中には地面に向けて開口部を塞がれている物もある。
「上にあったキューブは、こうやって音波と振動で粘菌を支配下に置くための装置だったんだよ」そして装置は月面の各所に設置され、粘菌の活動を封じ込めているに違いない。「それで多分、粘菌っていうのは全て繋がっている。量子空間でね。だから心の内を探ろうとしたとき、ピピはこの装置の影響を受けている巣と繋がって――沈静化しちゃったんだ」
周囲を探ると、音響とは無関係と思える機械もあった。ラック十本分の汎用のコンピュータらしくはあったが、インターフェイスにはデジアナコンバータが接続されている。更にそこからは膨大な本数の光ファイバーが這い出ていて、粘菌溜りの中に沈み込んでいた。
「アカネ、これ」
トキコに呼ばれて向かうと、壁際に十の金属板が並んでいた。モニュメントのように見える。粘菌の光を浴びて緑色に輝く盤面には、それぞれ長い英文が刻まれていた。彼女は指でなぞりながら、一つ一つ読み上げていく。
「セレーナ・ホーエンベルク」セレナだ。「カロリーナ・マグヌッソン」クーだ。「これはオリジナルの〈娘たち〉のお墓? でも十しかない。アカネとロッドは――」
「あたしゃ、まだ生きてるからね」
声がして振り向く。そこに立ち尽くしていたものを見て、唐突に吐き気を催す。
それは死者のように青白い顔をした、アカネだった。
「よう、私。やっと来たか。さすがに二百年は長すぎたよ」
彼女は言うと緑色の瞳を揺らがせ、血管の浮き出た頬に疲れ切った笑みを浮かべた。
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