4.12. 月面

 三度目に感じる急加速は、もはや驚きはなかった。しかし今回は明確な目標がある。みるみる間に前方の中間ステーションが近づいてくるが、そこまで行く間に可能な限り速度をゼロにしなければならない。


 五秒の加速。アカネはそれを大声で数えた。


「一、二、三、四、五!」


 トキコが勢いよく第三段の切り離しボタンを叩いたのはわかったが、加速は全く緩まない。驚いて振り返ると、彼女は表情を強ばらせながらパッド上に表示されている赤い箱を叩き続けていた。


「トキコ! どうなってるの!」


 エンジンの轟音に負けないよう叫ぶと、今度は彼女は可笑しさを必死に飲み込もうとしながら答えた。


「切り離しが効かないの! どうしてこう楽しいことばかり起きるのかしら!」


 その時、ピピのキャノピーが唐突に赤く瞬いた。急激に近づいてくる中間ステーションをいくつかの窓が捉え、拡大され、銃器のような物が向けられていることを示す。


 あんな武器、記憶にない。だが当惑している暇もなかった。


「ピピ!」


 叫びつつハンドルの操作モードを変え、レールガンの射撃スイッチに指を乗せる。ピピはあっという間に、四つある機関銃らしきものをロックオンし終えていた。息を詰めたままトリガーを引いたが、機関銃から火線が放たれたのもほぼ同時だった。キャノピーに無数の弾痕が刻み込まれ、装甲が火花を上げる。しかしその時には中間ステーションの武器は粉々に弾け飛んでいて、その破片のただ中に突っ込んでいく形になった。


 膨大な金属片が降り注いでくる。装甲は軋み、キャノピーのひびは増えたが、さすが最終技術の産物は強固だった。なんとか中間ステーションを突っ切ったが、急造のレールガイドはそうはいかなかった。気がつくと左前方が千切れ飛んでいて、後方の二つもぐらついている。騒いでいる間に第三段エンジンの燃焼は止まっていたが、速度は秒速一キロメートルから更に加速していっている。


 駄目だ、制御不能だ。


 思った瞬間、レールガイドは全て弾け飛んだ。ピピは〈ミハシラ〉から放り出され、目の前は金色の月と青白い地球とを交互に映し出す。やがて方向は月面に定まり、暗褐色の海が次第に近づいてきた。相手が大きすぎて実感がなかったが、数字は恐ろしい値を示していた。秒速千五百メートル。この調子で重力に引っ張られていけば、数十分で月面に激突する。


 状況を確認し終えたが、結果としてわかったことといえば、手の打ちようがないという事だけだ。秒速はどんどん増加していき、既に月と中間ステーションの中程、月面から千五百キロの位置までたどり着いていた。そしてトキコは月面に墜落するときは一万キロ以上に達しているだろうという、救いのない計算結果を披露する。


 こりゃ、どうしようもない。


 二人は言外に悟って、次第に言葉少なになっていた。


「しかしなんか私、落ちてばっかだな」


 急に色々と諦めがついて、忌々しく呟く。一方のトキコは、すっかり変になってしまっていた。急に何が可笑しいのかケタケタと笑いはじめ、バンバンとアカネのシートを叩く。


「見て、アカネ、鳥よ!」


 何のことかわからなかった。しかし緩やかに回転するキャノピーの向こうを注視すると、確かに何かがはためいている。紺色の身体に白いラインの入った小鳥で、数羽がピピを囲んで飛んでいた。


 なんでこんなところに。


 まさかこんな所にも空気があるのか? 袁山からの上昇気流が拡散せず、まだ続いている?


 同じ事をトキコも考えていたのだろう。ようやく笑いを収めながら、呆れたように呟く。


「それがわかってたら、翼を着けておいたのに。ねぇピピ」


 不自然な間があった。まさか頭部に損傷を受けてしまったのだろうかと思ったが、ようやく考え込むような調子で応じた。


『翼ですか。いいですねぇ。ワタクシ、何でも出来ますが飛ぶことだけは出来ませんでしたので』


「ピピ?」


 妙な大人しさに尋ねると、なぜか改まった調子でピピッと音を鳴らし、応答した。


『そういえばご主人様、お話を伺っていて疑問だったのですが。最初にご主人様が月から来られた時、気を失われていたわけですよね。どうして無事だったのですか?』


「え? あぁ。〈ホワイトスーツ〉にゃパラシュートが内蔵されてんだよ。それが勝手に開いたんだろ?」そこで頭の中のアルゴリズムが繋がり、大声で続けた。「あぁっ! すっかり真空だと思い込んでた!」


 トキコも悟り、後を拾った。


「パラシュートで減速できる?」しかしすぐ、口調を落とした。「いえ、でも、とてもピピの質量は二人分のパラシュート程度じゃあ――」


 ピピは再び、ピピッと音を鳴らした。


『それが確かめられれば十分です。コックピットを射出いたしますので、衝撃に備えてください』


「いやいやいや、待て待て待て!」


 アカネは叫んだが、ピピは静かに続けた。


『ご主人様、ワタクシはもう夢を叶えることが出来たのです。レールガンを撃つという――狂った化け物相手にも撃てず、邪悪な兵隊相手にも撃てず、このままじゃぁワタクシ、実際に撃つことなんて出来ないんじゃないかと思い始めておりました。もう悲しみの海に沈みそうになっていたのですよ。しかし実際に撃てた。大変素晴らしい感触でした。あれは何というか説明しがたい――あっ、これはいい題材になりそうですね。早速お別れの曲を一つ――』


「何をどうしたいんだよこのポンコツ!」


 この期に及んで苛立ちが爆発した。するとピピッと音を鳴らし、我に返った様子で続ける。


『おっと、失礼いたしました。ではコックピット射出五秒前、四、三、二』


「わーっ、待て待て何か考えるから!」


 しかしアカネの制止は最後まで聞かなかった。ゼロの宣言と共にキャノピーは弾け飛び、二人の乗ったシートも射出される。瞬く間にピピの姿は遠ざかっていき、金色の海に紛れ、点となり、見えなくなった。


 アカネは我に返り、慌ててシートベルトを外す。確かに四肢に空気抵抗を感じる。手間取っていたトキコに手を貸しシートを蹴ると、二人は互いにしがみつきながら月の空にダイビングした。


 気圧がどれくらいかわからないが、轟々とした風切りの音がヘルメットの中に響いてくる。こんな状況は全然考えていなかった。どれくらいの距離でパラシュートを開いていいのかもわからなかったが、早くて不味いことはないだろうという結論に達した。二人揃って腕のパネルを操作すると、折りたたまれていたパラシュートが展開する。それは問題なく空気をはらみ、一瞬の衝撃を受ける。しかしその後は、ただただ月に向かって緩やかに降下していくだけだった。


「最後まで、良くわからない子だったわね」


 呟いたトキコに、アカネは応じた。


「あれこそ、最高のポンコツだよ」


 次第に月面が近づいてくる。太陽光の反射を受けて黄金色に輝いてはいるが、実際は暗褐色の砂礫にまみれた砂漠――そう、アカネは当然のように思い込んでいた。しかし次第に色覚が妙に思えてくる。あまりにも短時間で様々な衝撃を受けたので、目が変になっているのかもしれない。そう思い首を傾げながらトキコに顔を向けると、彼女も口を半開きにして足下を凝視していた。


「――粘菌植物?」


 遊覧を経て、二人は月面に降り立った。そこは一面が淡く緑に光り、粘菌に寄生された植物が生い茂っていた。

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