4.15. 集合
「それからISAがどうなったかは知らない。でも私たちが月からやってきたというのは気づいたみたいだった。何度かロケットの打ち上げを試みていた。それを私たちは、都度都度潰すしかなかった」そして月日は流れ、記憶は伝説となり、最後には〈魔女狩り〉の噂だけが残った。「でもISAはしぶとかった。いつの間にか〈魔女〉って呼ばれるようになった彼らは、それでも諦めずに活動を続けていた。時子がいつ、何処で死んだかは知らないけど。すごいなぁって、思ってた。彼女こそ正義の味方だよなって。ずっと思ってた」
アカネは最初、彼女の中に自分の一部が存在するとは思えなかった。理解できる点が一つもなかった。だから苛立ちに包まれ何度かブラスターでひと思いに吹き飛ばしそうになった。
だが次第に、彼女の中に確かに自分が存在することがわかってきた。そして彼女の疲れた笑みの理由を直感的に悟ると、全身の力が抜け、ただ徒労感に包まれる。
「だから私なんかが真面目になっちゃ駄目なんだ」
呟くと、茜は苦い笑みを向けてきた。
「その通り。ろくな事にならない」
「色々不思議だった。〈娘たち〉の行動は粗ばかりだって。私ならもっと上手くやる。そう思ってた。でも実際は――あんまり上手くいくもんだから、手を抜き始めたんだ。誰かに止めてもらいたくて――正義の味方に倒される間抜けな悪役になろうとしたんだ。高校生の頃の夢みたいに」
「そんなとこだね。まさかそれが私自身になるとは思わなかったけど――さぁ、こんな所まで来たんだ、全てをどうにか出来る手を持ってきたんだろう? まさか私を――〈母さん〉を殺せばどうにかなるだなんて、考えなしの行動だったりしないだろうね?」途端に苦い表情を浮かべたアカネに、茜は深い深いため息を吐いた。「おい、止してよ。どこまで私は馬鹿なんだ」
「だってしょうがないじゃん! あんたの手抜きを縫ってくるには、この道しかなかったんだもん!」
「期待した私が馬鹿だった。結局私があと何百年か〈母さん〉を続けるしかないのか――まぁ、それも仕方がないけど――」
「つまりあなたは、事態を手放す気があるということね?」
言ったのはトキコだった。彼女の表情は凜としていて、まさに決死の覚悟で〈魔女狩り〉や〈連合〉と向き合った時、そのものだった。
それを向けられた茜は目を細め、半ば背を向けながら言った。
「私は死んだみんなのためにも、この粘菌の巣を守る義務がある。これだけは手放せない」
「いえ。手放してもらうわ」
トキコは真っ直ぐにブラスターを向ける。アカネは慌てて彼女の腕を取ろうとした。
「ちょっとトキコ。聞いてたでしょ? あの中には別の時空があるんだ。そこでは沢山の人が生きているし、その中から私を実体化出来たんだ、他の何でも――どんな技術でも再生出来るかも知れない。それは地上にとっても凄い遺産に――」
「悪いけどアカネ、私は別次元の人類のために、今、確かに地上で生きている人類を見捨てるなんてこと、出来ないわ」
「でも巣を壊してどうしようってのさ! 地上に粘菌が広がらないよう手を打ってたのは、〈娘たち〉だったんだ。もし考えなしに〈母さん〉を殺したら――」
「とっくに粘菌は広まり始めてる。彼女が〈手を抜いた〉おかげでね。もう彼女に世界を任せてなんておけないわ。荷が重すぎたのよ。彼女はもう壊れてる」
「じゃあ、どうしようって――」トキコがアカネの抱えるピピの頭に視線を向けるのを見て、唖然とした。「まさか――いやいや、それは不味いよ! いくら何でもこのポンコツに運命を委ねるなんて!」
「大丈夫よ、ご主人様一号様?」
笑顔で言われ、アカネは力が抜けてきた。急に色々な事がどうでも良くなってきて、苦笑いしながら首を傾げた。
「やっぱ人類をどうこうするような決断、私にゃ無理だ。任せるよ、ご主人様二号様?」
頷くトキコ。それを見てアカネもブラスターを展開させ、次々に粘菌を拘束するスピーカーを撃ち始めた。一つが火花を放って沈黙する度に粘菌溜りはざわざわと蠢き、うねり、気体をゴボゴボと吹き出した。トキコは上層のキューブから伸びてきているケーブルを切断していく。その度に粘菌の放つ蛍光は明滅し、ピピの頭部の光も元通り忙しなく瞬く。
やがて異変は月全体を包み込もうとしていた。全ての粘菌が震え、流動し、地面の深いところから揺れが起きる。希薄な空気すら震え始め、緊張し、一度に温度が上がってきた。
水沢茜は腕のパネルを操作して何かしようとしていたが、すぐに何もかも諦めた様子でコンソールを背に座り込む。そして最後に二人のブラスターを向けられると、怠そうに頭を掻きながら言った。
「これが何の解決になるのか、全然わからない。粘菌は月を再び支配する。そして今度は、本当に地球を飲み込む。以上、一巻の終わり」
「かもね。でも一つだけ可能性があるんだ」
ピピの頭部を掲げてみせると、茜は眉間に皺を寄せる。ピピはピピッと音を鳴らし、両眼カメラのファインダーを動かして彼女を捉えた。
『ややっ、何事ですか。またしても別のご主人様が。やはりご主人様は分裂されるのでは?』
「モルダリー・コア?」
呟いた茜に、アカネは言った。
「あんただって、粘菌が知性を持ち得ることくらい知ってたでしょ?」
「粘菌と意思疎通しようって? 無駄だよ。私らも何度も試した。けれどこいつらは、条件反射で動く下等生物と同じくらいの知性しかない。連中に侵略を思いとどまらせる事なんて不可能」
「それは二百年も前のお話でしょう」と、トキコ。「彼らは私たちと違って、全体で一つなのよ。サンプルは全体の一部でしかなくて、個ではない。だから私たちのように、個々に様々な考えを持って鬩ぎ合う事が出来ない。一つの意志、一つの回路を生み出すのに時間がかかるのよ。人類で言う集合的意識が、粘菌にとっての一つの意識になる」
「そんな珍説、一体何処から」
トキコが答える前に、ピピがピピッと音を鳴らした。
『――はて。何だか今までワタクシ、妙な夢を見ていたような気がしてきました。これは一体――』先を待ち受ける二人に、ピピは続けた。『ワタクシ? いえ、私? 我々? どれも不適切な言葉です。どうしたことでしょう。どうしてワタクシはワタクシだなんて――自分? 自分とは――人類から見たら異質な存在? 人類、地球、月、それを、自分は――破壊し続けていた? どうして、そんなことに? 二百年――それは全て、夢だった? いや、夢ではなく現実? ご主人様、ワタクシは一体――何を?』
「アカネ、ピピを帰してあげよう」
「うん」
トキコに応じて、アカネはピピの頭部を展開させた。ガラスに包まれた流動体は粘菌溜り同様に蠢き、未知の推進力を生み出し巣に帰ろうとしていた。アカネはそれに逆らわず水面へと近づくと、根元にあるインターフェイスを引き抜いた。
ピピであった塊は、最初流動体との間に境界を持ち、浮かんでいるような状態だった。しかし次第に界面は溶けていき、巣へと溶け込んでいく。そして全体との見分けが付かなくなった頃、アカネは月面全体を覆っていた不気味な鳴動が収まっているのに気づいた。
何が起きるのだろう。
待ち受けていた二人の前に、巣は一つの塊を浮かび上がらせた。現れるとすれば粘菌全体を代表する何かだろう。そう考えていたが、次第に形作られていく姿にアカネは当惑した。塊は二つに分裂し、一つはアカネと同じくらいのサイズになり、もう一つはトキコと同じ大きさになる。そして細部が整っていくと、あまりの懐かしさに涙が零れそうになった。
ほんの半年ほど前の事のはずだ。だがそれは既に二百年前の出来事で、現実でもなかった事。それが今、目の前で展開されようとしていた。
『うわっ、マジか』セーラー服の茜は目を丸くし、時子の肩を揺さぶった。『ほら見て時子、真面目に外に出られちゃったよ!』
顔を強ばらせているセーラー服の時子は、身を震わせながら応じた。
『やだ、まさか。私たち、幻覚でも見てるのかしら』
『そうじゃないって! 絶対この世界は現実じゃないって言ったじゃん! CERNとかが何か色々隠蔽してるんだよ! やっぱその通りだったんだ! 時子だってそうかもしれないって言ってたじゃん!』
『ごめん、適当に答えてた。てっきりいつものオカルト話だとばかり――』そして時子は、ぽかんと口を開いているアカネとトキコにおずおずと話しかけてきた。『えっと、私たち? 外側の? こ、こんにちは』
「こんにちは」
二人揃って応じると、時子は茜の袖を引いた。
『ほら、茜も何か言って!』
『え? えっと――』頭を掻くと、思い出したというように指を鳴らした。『そうだ、これってピピとかいうのから夢で啓示を受けたんだけどさ。何の話かわかる?』
「なんとなく」
応じたアカネに、茜は続けた。
『そっか。良かった。えっとね、なんか集合? するのに時間がかかるから、代わりにおまえが言っといてくれって。色々ごめんね、って』
『ちょっと茜! ほんとにそんな適当な感じの事しか聞いてないの? これは未知との遭遇よ? ちゃんとしないと!』
『だって夢の事だよ? あんま覚えてないよ! でも、そうだな――』顎に指を乗せて考え、彼女は笑顔で言った。『なんかそっちの世界、ヤバいんでしょ? これから迷惑かけないようにするつもりだから、勘弁してって。それで何だっけ。後はマーティン? とかいうおっちゃんがどうとか――わかる?』
「わかるわかる。あいつが代理人になるの?」
『そう! それ。代理人とか言ってた。そんな感じ。わかる?』
「わかる、けど――」アカネはトキコと顔を見合わせ、二人に尋ねた。「迷惑かけないって言われても、相当ヤバい状況なんだけどさ」
『すぐにわかるって言ってたよ。まぁちょっと待ってみな? ピピとかいうロボット、相当凹んでたから。大丈夫だと思うよ?』
『え? ピピって何か神様的なのじゃないの? ロボット?』
困惑して問いただす時子に、茜は渋い表情を浮かべた。
『しょうがないじゃん、実際ロボットだったんだから』そして彼女はしげしげと二人を見つめ、関心したように言った。『ま、でも外側でも私と時子は一緒みたいで良かったよ。元気?』
「あんまり」
苦笑いで答えると、彼女も見覚えのありすぎる苦笑いを浮かべた。
『そっか。でも時子と一緒なら何とかなるよ。ね?』
『無責任すぎる台詞だわ』呆れて時子は言い、彼女もまた二人に目を向けた。『でも、私も会えて良かった。私たちに出来ること、何かあるかしら?』
アカネは考え込んだ挙げ句、言った。
「知ってると思うけど、私は相当ヤバいから。悪いけど面倒見続けてくれる? じゃないと真面目に世界を支配するラスボスになっちゃう」
「ほんと」トキコも応じた。「でも、私も彼女と一緒じゃないと出来ないこと、沢山あるはず。だから仲良くして? ね?」
時子と茜は苦笑いを向け合い、最後に二人に顔を戻した。
『じゃ、あんまり続けると電気代凄い使ってるのバレて退学になっちゃうから。この辺でね。またそのうちに』
「うん。そっちも元気でね」
トキコが応じて手を振った時、二人の姿は粘菌溜りの中に溶け込んでいった。
そして血の臭いに気がつく。振り向くと十の墓石の側で、水沢茜は事切れていた。
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