4.16. 欠片を探して(最終話)

 再び〈月下〉の砂を踏んでヘルメットを展開させると、何だか少し、風の臭いが違うような気がした。以前は何処に行っても重く感じられた空気が、今は少し軽くなっている。


 丑寅の街には避難していた人々が戻りつつあった。獣たちの持ち込んだ粘菌が繁殖していないか心配だったが、塩害のおかげで最低限で済んでいた。結果はどうだったのかとエスパルガロやパークスが尋ねてきたが、アカネとトキコは説明に窮した。粘菌はもう人類を苦しめないと言っていたが、今のところ何かが変わった風もない。


 答えを持っているのはマーティンだ。彼の顔つきはすっかり変わっていた。以前は落ち着きがなく、常に口を半開きにして眠そうな目をしていた。しかし今は緑色の瞳を隠すことも止め、謎めいた笑みで一同に応じた。


「彼らは行動を修正するのに時間がかかる。それが生物学的特性なんだ。諦めて貰うしかない。しかし彼らを開放したことによって、状況は間違いなく好転する」


「具体的な答えが欲しいわ」


 リーダーとしての責任感を取り戻したトキコに詰め寄られ、マーティンは肩をそびやかした。


「以前の粘菌は、君ら人類が比喩的に言う所の単細胞生物だった。そこに知性はなく、ただ繁殖のための水を求めて彷徨うだけの存在だった。しかし彼らは〈娘たち〉から人類全ての記録を挿入された事で、自分たちの本能とは全く別個の知性と社会というものを学んだ。二百年もの時間を要したが――今は時間と空間、人類という知的生命体の存在と生存要件を理解し、自分たちに何が出来て、何をしてしまったのかを理解した。そしてこれも人類から学んだ概念だが――彼らは後悔をしている。人類に対して償いをしようとしている。それが何なのかは、すぐに答えは出ないだろうが――少なくとも今以上の粘菌の拡大は防がれるはずだ」


「はず? あなたは巣と交信できるわけではないの?」


「それは――出来るといえば出来るが、出来ないともいえる。説明が難しい。まぁ、もう少し時間をやってくれ」


 彼の予言通り、〈月下〉に広まりつつあった粘菌は縮退を始めた。以前のように野放図に広がっていくことはなくなり、代わりに点々と池のような粘菌溜りに集合していく。マーティンの予想では、彼らは自分たちの影響で破綻した環境を修復しようとするだろうとのことだった。一番は接近した月の重力による地殻変動だが、今はそこに粘菌を送り込んで補修しようとしているらしい。確かにここのところ地震の頻度が少なくなり、突発的な隆起や陥没も起きなくなっている。


「ある意味、最悪の展開かもしれないわ」トキコは状況が落ち着きつつあることで、逆に元の心配性がぶり返してしまっていた。「月だけではなく、地球まで完全にコントロールされてしまっている。もし彼らが人類を見限ったら、どうなると思う?」


 尋ねられたアカネは、苦笑いで答えるしかなかった。


「それ以前に、人類は内輪もめして滅んじゃうかも。そっちの方を心配したら?」


 実際、ここのところの〈月下〉で起きた様々な出来事に、〈連合〉が本格的に興味を抱いているという話も聞こえてくる。マーティンはすっかり仙人のようになってしまい、浮世のいざこざに関わる気は毛頭ないらしい。そうなると人類の対粘菌秩序は〈アーカイバ〉が主導しなければならないが、〈月下〉の復興に忙しい今の彼らにそんな力はなかった。


 多少の希望といえば、セレネが六人の〈娘たち〉を上手いこと説得してくれたことだ。彼女たちは〈アーカイバ〉の傘下に入り、個々人が持っている卓越した能力を発揮している。残った六機のマーク7MMWも活用出来れば〈連合〉に対するのも楽なのだが、そこはマーティンが見逃さなかった。


「ほんの一部でも粘菌を使役していたら、連中が機嫌を損ねるぞ。モルダリー・コアは全て破棄するんだ」


 そう言われてしまえば反論のしようがない。コア内の粘菌は付近の粘菌溜りに帰し、アカネは代用となる別のコアを開発することにした。二十一世紀の技術を拾い集めて何とかそれらしく動くような代物は作り上げたが、とても以前のような反応速度と柔軟性は取り戻せなかった。しかしこれはこれで由としなければならないだろう。ないよりはましだ。


「しかしま、こいつ大飯ぐらいなの忘れてた」


 アカネは送電塔から転用された大風車に一機のマーク7を接続し、充電速度を改めてから呟いた。最後はピピにしろレールガンにしろ無闇に使っていたが、あんなのは緊急事態だから出来たことだ。いざ平常が近づいてくると、〈月下〉に来たばかりの頃のようにジュール貧乏へと逆戻りだ。〈アーカイバ〉だって多少の蓄えはあっても無限のエネルギー源を持ってる訳ではないし、これからは地道に稼ぐ方法も考えていかなければならない。


「地道かぁ」


 アカネは砂の上に寝転んで、相変わらず巨大な月を見上げる。やっぱり地道というのは、どうにも性に合わない。すぐに何か楽に大もうけ出来る方法はないかと考えてしまう。風力や太陽光発電というのは効率が低い。やはり爆発的なエネルギーを得るには化石燃料が一番だ。しかし石炭や石油が安定して採掘できている場所があるなんて話は、結局一度も聞かなかった。


 だとするとやっぱり、原子力だな、と思う。あれならば燃料も大量にはいらないし、高速増殖炉という手もある。仕組みだってそう複雑ではない。問題は下手をしたときの影響くらいで、それも面倒な環境保護団体がいるわけでもなし、こんな荒野ばかりの世界だったら別に気にせずやれるんじゃあ――


「何かまた悪巧みしてる?」


 図星を指摘する声に身を震わせる。顔を上げると、出会った頃のようにレザーコートとストールという姿のトキコがいた。彼女が差し出すバスケットには昼食が入っていて、太陽は次第に月に隠れようとしていた。


 周囲はあっというまに暗くなっていき、所々にある粘菌溜りが蛍光を放ち始める。アカネはトキコと共にそれを眺め、固いパンを口にしつつ言った。


「悪巧みっていうか、前から考えてた事があって」


「ロッドのこと?」


 本当にトキコは凄い。アカネは感心しつつ苦笑いした。


「彼女には悪いことをしちゃった。私も、彼女も、そしてきっとスリーやフォー、じゃなきゃ粘菌の中で今も動いている別の時空でも」


「きっと彼女と上手くやれている世界もあるわ」


 そうだろうか。


 アカネは首を傾げ、眉間に皺を寄せた。


「でもさ。私、今回で色々な自分に会った。私自身も記憶をなくして別人のような気分にもなった。けど、結局は全部私なんだよね。三つ子の魂百までじゃないけどさ、どの私もおんなじことをしてた。そういう状況なら、私もそういう選択をするだろうなって。だから私って、常にロッドを利用し続けていたんじゃないか、彼女の聞いていた〈声〉って、結局全部私が都合良く彼女を使おうとしてた物なんじゃないか。そんな気がしてならないんだ」


 トキコはすぐには答えず、体育座りをして膝に顎を乗せた。


「それは思い込みよ。科学的じゃあない」


「そうかな。十分科学的だと思うけど。要するにさ、私らは型(Mold)に詰められた粘菌のようなもんなんだ。どんな時代、どんな状況に置かれても、毎回同じ反応をしちゃう。量子性なんてお構いなし。私はピピに、そうじゃない、人は経験によって変わる存在なんだって言ったけどさ、結局はそうじゃない――私たちはどうやっても、型を逃れられない存在なのかも――」


「いえ。粘菌は一つで全て。人は無数で全て。個々は相互作用によっていくらでも可能性を持ち得るわ。それが人類の強み」


「それはわかってる。そうじゃなく、人類って無数の全てにおける、私の存在のお話だよ。私とロッドってのは人類の仕組み上、どう足掻いても利用し利用されてしまう関係なんじゃないかなって――結局は粘菌と同じなんじゃないかなって――」


 途端にトキコは吹き出した。


 せっかく珍しく真面目な話をしていたってのに。そう顔を赤くして責めようとしたアカネを遮り、トキコは言った。


「あら、ごめんなさい。でも可笑しくて。なんていうか、そういう思い込みが激しすぎるのがアカネの面白い所よね」


「どこが思い込みなのさ」


「だって考えてもみてよ。アカネとロッドって二つの変数だけならまだしも、そこには私や、セレネや、他の沢山の変数が関わってくるのよ? それは人の集合的無意識の存在は否定しないけれど、たかだか一個人、二人の存在を永久に束縛するほどの代物のはずがないわ」


「でも、私はトキコがいないと必ず魔物になる」


 問題はそこだ。事例が一つだけならまだしも、二つもあるのだ。


 しかしその動かしがたい事実もトキコにとっては問題にならないらしい。少し戸惑ったようにしながらも、すぐに表情を晴れさせて立ち上がった。


「私は水沢茜が魔物だったなんて思ってないわ。彼女が必死にならなければ、粘菌が人類を知る前に全て滅ぼされていたでしょうから」


「でもそれはたまたまで、彼女が矢田時子を殺したようなもんだよ」


「一つは型に捕らわれた運命で、もう一つはたまたま?」トキコは首を傾げて尋ね、アカネが反論できないのを確かめてから続けた。「だいたい私は矢田時子じゃないわ。遺伝子だって違う」


「そうだけどさ。何か輪廻を支配する因果みたいなのがあって――」


 自分でも馬鹿なことを言っているという気がしてきた。これじゃあまるで、自分が端から見て笑っていた超常現象の狂信者みたいだ。


 笑うアカネに、トキコも笑う。そうして彼女が差し出してきた手に捕まって立ち上がると、マーク7を見上げながら言った。


「まぁいいや。でも私、やっぱり連中と同じように――自分の欠片を探しに行かなきゃならない。じゃないと自分を許せないよ」


「――いずれ、そう言うだろうと思ってた」トキコはマーク7の周りに置かれた荷物を眺め、アカネに笑みを向けた。「もう行くの? ロッドを探しに」


「トキコと話したら、すぐに出るつもりだった。どうせみんなに話したら、セレネあたりに文句を言われるだろうと思ったし。『また勝手にいなくなって!』ってさ」


「でも、もう〈魔女狩り〉を恐れずに無線も使えるんだから。ちゃんと連絡してね?」


「そうする」


「あんまり無茶しちゃ駄目よ?」


「そのつもり」


「じゃあ――またね。私は因果とか信じないから。次の私っぽいのが出てくる前に、ちゃんと帰ってきてね」


 アカネは嗚咽を飲み込んで頷くと、トキコが去って行く背中を見送り、マーク7に乗り込んだ。


「さぁ、行こうかピピ。ロッドはどの辺にいるのかね」


 ピピはピピッと音を鳴らし、答えた。


『おはなしの言葉が理解できませんでした。別の言葉を試してください』


〈了〉

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月面少女と月下の魔女 吉田エン @en_yoshida

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