2.9. 終末の自分
「私、ここで働いてた?」
呆然として呟いたが、そんな記憶は当然無い。加えて2030年代後半と推定される施設の稼働時期にここで働いていて、それから冷凍睡眠でもしたとするなら、自分はとうに三十才を超えているはずだ。
いや、ひょっとしたらそうなのかもしれない。けれどもアカネは心身共に十七才という感覚しかない。十何年も知らぬ間に老化していたなら、何処かしら身体の異常に気づいているはずだ。腰が痛いとか、傷や皺が増えてるとか。しかし、それもない。
何もかもわからなくなってきた。もう同姓同名の別人と投げ捨ててしまいたくなる。
「プーさん、他にこの名前、何処で見た?」
尋ねると、ラスプーチンは3Dプリンターの傍らにあるパソコンに向かう。そしてキーボードを爪で叩くと、新しい画面が開いて信じられない動画が流れ始めた。
私だ。
疑いようもなかった。髪は少し伸び、窶れてはいたが、十数年後の自分に間違いないという確信があった。
彼女は〈ホワイトスーツ〉を身に纏っていた。場所はこの施設らしく、周囲には未だ輝いている様々な機械類が窺える。カメラは小刻みに揺れ、マイクは深い地鳴りのような音を拾っていた。茜は不安そうに上を見上げ、薄い唇を開く。
『聞いてる? さっき五十キロ先で噴火が始まった。やっぱり月の真下はそうなるよね。噴石は落ちてくるわ、噴煙で息苦しいわ、もう限界。ここは放棄する。残りの資材は諦めて。辛うじてウチの衛星から映像が入ったけど、何もかも滅茶苦茶だよ。ニューヨークも、東京も、主要都市は全部沈むか潰れるかした。文明はもう、終わり』自分で発した言葉にうんざりするように、茜は宙を仰いだ。『イーロンは火星に行っちゃった。どうしようってんだろ、あんな不毛の地に十人ばかりで行って。ま、それは私たちも同じか。そうだ、西に六百キロの地点にISAが拠点を作った。座標を送るから、一応監視の継続をお願い。連中には何も出来ないと思うけど――じゃあ次は一月後。茜、アウト』
それで映像は途切れる。どうやら送信キューには入ったが、ネットが寸断されて送れずじまいだったビデオレターらしい。巻き戻して繰り返し見つめていると、ラスプーチンが背後から言った。
『アカネ、そこ、これ、名前、これだけ。わかる人、これだけ。他、何もない』
施設で働いていた人物らしい名前は、これしかなかったということだろう。言葉を覚えられるほど長く徘徊していた彼が言うのだ、他には何も残っていないに違いない。
アカネはポケットから端末を取り出すと、パソコンに繋いでデータのコピーを行う。そして懐に収めた頃、3Dプリンターが動きを止めて全てのアームが初期位置へと収まった。ラスプーチンは横たわったままのピピに近づくと、腰の部分に隠されている主電源スイッチを入れる。途端に通電の音が響き、各所のアクチュエータがキャリブレーションを合わせにいき、最後にピピッと音を鳴らした。
『――はっ! なんだか酷い悪夢を見ていたような気がします。いやっ? ここは何処ですか? 私は誰?』
相変わらず馬鹿げた台詞だが、それでアカネは多少気が晴れた。
「ここは袁山の廃墟、あんたはピピ」
言うと、ピピは綺麗になった頭部をアカネに向けて金切り声を上げた。
『ご、ご主人様! じゃあやっぱりあれは夢ではななったのですね? ワタクシの全身身ぐるみ剥がされて無茶苦茶に――ってぎゃああ! まだゴリラ熊がそこにいるじゃないですか! 発砲の許可をお願いします!』
「発砲の許可っておまえ、武器なんか何一つ――」そこでピピの肩にくっついている物を見とがめ、アカネも叫んでいた。「ってレールガンが! なんであんたに装備されてるのさ!」
『あれ、違う? 付く、普通、構造、変えた』
戸惑ったようにラスプーチンに言われ、アカネがため息を吐いた時だ。ヘッドセットからトキコの悲鳴が響いてきて、慌てて瓦礫を駆け上がる。そして崩れた壁の外に飛び出すと、彼女は後ろ足で立ち上がったゴリラ熊に正面から向き合っていた。恐怖のあまり身動きできない状態らしい。
『熊、駄目、夜!』
ラスプーチンが叫ぶ。すっかり時間の感覚を失っていた。太陽は半ば月に隠れ、周囲は暗闇に包まれつつあったのだ。
「ピピ!」
それだけで彼は応じていた。整備台から飛び降りて瓦礫を駆け上がると、飛び込んだアカネを取り込んでからバギーへ変形、ゴリラ熊に突進した。レールガンの砲身は、操縦席の上部から伸びている。一瞬撃とうかとも思ったが、まだゴリラ熊が本当に殺しても構わない存在なのかわからなかった。
しかしゴリラ熊は容赦なく、その尖った巨大な爪をトキコに振り下ろそうとする。アカネはすぐさま人型に変形させると、右手でゴリラ熊の腕を捉え、左手でトキコを抱え、相手が当惑している間にバギーに変形し、地面一杯に光を放つ粘菌植物を磨り潰しながら施設の中に逃げ込もうとする。
だがその先は、既に数体のゴリラ熊が這っていた。急ブレーキをかけ、トキコを運転席の中に入れつつ叫ぶ。
「プーさん!」
施設の壁の隙間から覗いていた彼は、大声で応じた。
『話、無理、行け、急げ!』
「でもプーさん、あんたは大丈夫なの!」
『自分、熊、同じ!』
同族は襲われないということだろう。アカネは名残惜しそうに片手を挙げた彼に、叫んだ。
「じゃあね、プーさん! 色々ありがと!」
そして手を振り、ハンドルを握り、ピピを下界に向けて発進させた。
数体のゴリラ熊が追ってくる。しかし完璧に整備されたピピは、以前よりも更に高速になっていた。加速で身体はシートに押さえつけられ、多少の荒れ地はサスペンションで完璧に吸収する。強烈なライトは霧の先を数十メートルは照らし、センサーもより精密になっていた。ものの数分で獣たちの姿は見えなくなり、アカネは速度を緩めてから後ろを振り向いた。
シートの後ろに無理矢理押し込まれていたトキコは、ようやく平常心を取り戻したようだった。大きく息を吐き出すと、ヘルメットを格納させて額の汗を拭く。
「もう、本気で怖かった。殺されると思ったわ」
「〈娘たち〉や〈連合〉の大部隊は平気なのに?」
揶揄すると、トキコは頬を膨らませて抗弁した。
「あれは心の準備が出来てたから。熊はもう、いきなりだったし」そして身を乗り出させ、慌てた様子でアカネの横顔を覗き込む。「そうだレールガン! 夜が明けたら取りに戻らなきゃ! 他は諦めるにしても、あれは私たちの大切な――」
「あー、それなんだけど」
アカネは指を上に向け、頭上に伸びる砲身を指し示した。途端に驚き混乱するトキコには、ありのままを説明するしかなかった。ラスプーチンが勘違いして、すっかりピピにくっつけてしまったと。
「えぇ、そんなぁ――」
トキコはなんとも言えない困りかたをした。彼女が懸念している点はわかる。自由奔放な性格はもとより、彼の制御コアが〈娘たち〉の作った得体の知れない粘菌だった事だ。でもそれは、今相談出来ることじゃない。
「後で話そ?」
そう目配せしつつ言ったアカネに、ピピは問題に気づいた様子もなく甲高い声で割り込んでくる。
『何をそう困られているのですご主人様二号様。以前のレールガンと違い今はもうワタクシと一心同体、もはや分け隔てる物は一切ないのです! レールガンとはピピの事であり、ピピとはすなわちレールガンの事なのです! どうです素晴らしいでしょう!』
「別々で十分だったんだけれど」呟いてから、トキコは続けた。「まぁいいわ。とにかく収穫は色々とあったし。丑寅に帰りましょ? みんなと色々と相談しなきゃ」
言われるまでもなく、アカネも早く帰りたくて仕方がなかった。そして一人になって、あの〈茜〉に関する不可思議なデータを分析しなければ。
未だにあの映像について、冷静に考えられずにいた。三十代くらいの自分。終末に居合わせた自分。宇宙開発企業で働いていた自分。どれもこれも理解不能で、息苦しさに溺れそうだった。
だいたい、自分は今、ここにいる。なら〈彼女〉は何者なのだ?
いや、逆だ。
アカネがそれに気づくと、急激に心臓が凝縮した。
そうだ。2020年の記憶の先は、彼女に繋がっている。きっとイーロン・マスクの伝手を使えるだけ使って、大学からスペースXへ進んだのだろう。妥当だ。自分にしては面白みがないが、ただ大人になっただけなのかもしれない。順調に大人になって、順調に働いている自分が、あそこにいた。そして地球が壊れかけている瞬間まで何事かをしていて、死んだ。
そう、彼女は死んだのだ。少なくとも自分は彼女が冷凍睡眠した結果なんかじゃない。自分は彼女とは連続していない、全く別の存在。
でも、そうだとしたら、自分は一体何者なのだ?
「――アカネ、大丈夫?」
黙り込んだままなのを気にしてか、トキコが後ろから話しかけてきた。〈昼の夜〉も終わり、周囲が次第に明るくなってくる。
おかげで、渓谷を抜けた先に現れた集団を見逃すことはなかった。急ブレーキでリアタイヤは滑り、トキコは悲鳴を上げてアカネの首に腕を回す。
呻きながら、彼女は目を上げる。そしてアカネと同じ物を見て、息を詰まらせていた。
そこでは三台の装甲車、二十人前後の兵士を従え、黒スーツのマーティンが得意満面で立ち塞がっていた。彼は指先を銃の形にして二人に向けると、相変わらずの馬鹿そうな口調で言う。
「ほら、簡単だろ? 〈魔女〉狩りなんて」
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