5. トキコ
静止した月を背に走って行くと、広い川に行き当たった。幅は百メートルほどあり、どうやら〈月下〉の山から流れてきているらしい。水を汲もうかとも思ったが手頃な容器もない。アカネは手と顔を洗うに留め、川のそばを走っている道に乗った。
おそらくこれが、キャラバンの男が言っていた街道だろう。道と言っても無数の車通りで固められただけの道筋で、所々が抉れたり崩れたりしている。
やがて道筋に無数のガラクタが見え始めた。殆どが錆び付いた自動車の類いだったが、崩壊した建築物のようなものもある。その先に見えてきたのは、そうしたジャンクを積み重ねて作られたらしい壁だった。
きっとあれが丑寅の街だろう。壁は幅二百メートル、高さ三メートルほどはあり、側面は川に遮られ、背面は山の裾野に守られている。周囲では数え切れないほどの風車が回っていた。いずれも翼は精々一メートルほどの直径で、軸にモーターが付いている。発電用のものだ。
ピピが探知したのは、これらの風車が発する電磁波だろうか。
門の前には数十台の車が停められていた。これもジャンクかと思ったが違うらしい。門から荷物を抱えた数人が現れると車に乗り、アカネのいる方向とは逆に向かっていく。
特に警備はないらしい。それでも慎重にピピを街に近づけると、壁の側にあった廃墟に滑り込んでいく。どうやら朽ちたガソリンスタンドらしい。アカネは比較的原形を留めているガレージにピピを停めると、隅で砂に埋まりかかっていたビニールシートを引っ張り出し、覆う。
『あれ、ワタクシは連れて行ってくれないんですか?』
「キャラバンの男だって、あんたを珍しがってただろ。ここでじっとしてな」
『はーい』
アカネは背を向けかけていたが、やる気のない返事を受けて心配になった。ご主人様と呼んではいるが、どこまでアカネを認識しているのかいまいち怪しい。
「いい? 勝手に誰かに付いていくんじゃないよ?」
『わかってますよ。ここでじっとしてますって。相変わらず心配性ですねぇまったく』
「誰の所為だと思ってんの」
とにかくこんな状況だ、いくらポンコツとはいえ、今はピピだけが頼りだ。念のためもう一枚のシートでピピを完全に覆い隠すと、ガレージから出て門に向かった。
日が西の山脈に沈もうとしている。クルクルと回る風車は街灯も兼ねているようで、次第にポツポツと明かりを灯していく。ふと門を見上げると、数人の男が暇そうに雑談をしていた。キャラバンの男が持っていたのと同じような銃を背負い、ヘルメットやゴーグルを身につけている。
ゲートから中に入ると、そこは究極のジャンクヤードといった具合だった。目に入る構造物は大抵金属で、錆び付いていて、荒い溶接やボルトで固定されている。地震のせいか高くても精々二階建てで、それも貨物コンテナを二つ積み重ねたような代物だった。
人の往来は、そこそこあった。みんな髪はボサボサで服はすり切れていたが、不衛生ではなさそうだ。比較的東洋系の人種が多いようで、黒い目に黒い髪が半数ほど。おかげでアカネもそれほど目立たずに済んでいるようで、何人かは光沢のある白いブーツをめざとく眺めてはいたが、それが精々だった。
通りは数百メートルあり、やや湾曲して山脈の中に伸びていた。そちらにもジャンクの壁があり、どうやら砂漠の外と繋がる交易ルートを支配しているらしい。これがキャラバンの男の言っていた回廊だろう。山のような荷物を背負った交易商らしき人物がそこそこいて、中には道ばたで店を広げている者もいる。
覗いてみると、手工業製の雑貨類に加えて、工業製品も並べられていた。コンピューターパーツ、スマートフォン、タブレット、IoT機器の部品類といったものだ。
とてもネットが生きているとは思えない。そう怪訝に思ったが、どうやら彼らはLANだけでそれらを活用しているらしい。軒下で数人の子供が集まり、タブレットでパズルゲームのようなものをやっている。
一つ手に取ってみると、Android端末だった。中にはSonyやXaomiの見覚えのある端末もある。どれだけ時間が経っているか知らないが、今でも使える物があるとは驚きだ。きっと未使用のバッテリーが膨大に出回っていて、それと交換しているのだろう。案の定修理屋もいて、精密ドライバーで壊れた機器を分解し、モジュールを分類して保管している。
通りを端から端まで歩いて、やはり不思議に思った。ここにあるテクノロジーは、2020年が限度だ。多少見覚えのない品もあったが、それでもせいぜい2030年頃だろう。ピピを構成するパーツの技術力には遠く及ばない。
そうした技術は、男のいっていた〈連合〉とやらが独占していたりするのだろうか。
それでも幾つかわかったこともある。やはりこの世界では電力が通貨代わりになっていて、相場からするとだいたい一メガジュールが10円くらいらしい。つまり男が修理代にくれた一ギガジュールは一万円ということで、それなりの値段に思える。
問題はピピの充電だ。満充電で百ギガジュールだから、百万円もかかるということだ。
「辛いなぁ」
すっかり暗くなった街中で、壁を背にして往来を眺めつつ呟く。見上げると巨大な月が目映く輝き始めていて、赤茶けた街全体を多少は美しく照らしあげていた。
山からここまで、バッテリーの殆どを使ってしまった。残っているのは百メガ程度しかない。今、頼れる物はピピくらいしかない。可能な限り万全の状態にしておきたいが、百万円なんて昔のアカネでも仰ぎ見るような値段だ。
「何もかんもわからんし、はてさて、そんな金、どうやって稼いだらいいもんか」足が重くて、地面に座り込んでしまう。「さすがに疲れた。腹へった」
すると不意に月明かりを遮る一つの影が、アカネの前に立ちはだかった。
「もし。ひょっとして今の、日本語かしら」
見上げると、幻覚でも現れたのかと思った。
「時子?」
思わず呟いてしまうほど、よく似ていた。丸い目に丸い顔、黒い髪を三つ編みにして脇に垂らし、顔には穏やかな笑みを浮かべている。
まさかひょっとして、時子も茜同様、得体の知れないタイムスリップか何かに巻き込まれてしまったのだろうか。
一瞬思ったが、彼女の反応を見てすぐに違うと悟った。彼女はアカネの顔に驚きもせず、ただ困惑したように身を離した。
「え。えぇ。私はトキコですけど――何処かでお会いしたかしら」
恐る恐る立ち上がり、彼女を見下ろす。背格好も同じくらい、百五十センチ前後だ。けれども身に纏っているのは学校の制服などではなく、赤茶色の皮で出来たロングコートに、様々な色彩の糸を混ぜて編んだストールを巻いている。とてもアカネの知る時子がするようなファッションじゃない。加えて顔の形も少し違うように思えた。時子と比べて眼孔は落ちくぼみ、目鼻立ちが鋭い。
あまりにまじまじと見つめるので、彼女も恐怖を覚えたらしい。困惑から怯えた笑顔に変え、更に身を離そうとしつつ言った。
「ごめんなさい、お邪魔したみたいね。それじゃあ」
「ま、待って待って。急に日本語で話しかけられたから、驚いただけ」
それで彼女も納得したらしい。安堵の笑みを浮かべつつ言った。
「そう。それはそうよね。日本語なんて、もう殆ど死語だもん。私もおばあちゃんと話してたきりで、久しぶり。まだ話されてる地域があるの?」
「その、えぇと――南の方でね。少しだけ」
「午の街? あそこはミクロネシアンばかりだと思ってたけど――」
「違う。もっと、もっと南の方。知らないと思うよ。小さな集落だから」
「そうなんだ」
そして彼女はアカネの上から下までを改め、苦笑いした。
「何か食べる?」
「え?」
「それに酷い格好だし。うち、キャラバン相手の宿屋やってるの。良かったら来ない? さっき団体さんが出て行ったから部屋も空いてるし」
トキコと名乗った少女は、有無を言わせない調子でさっさと先を行く。この辺も時子とそっくりだ。言葉や仕草は柔和だが、いざとなるとアカネ顔負けの豪腕ぶりを発揮する。
しかし彼女は何者なのだろう? 時子の子孫? それともクローンか何か?
疑問は山ほどあったが、空腹には抗えなかった。アカネは眩しい月明かりの元、駆け足で彼女を追った。
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